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中山道29 軽井沢宿~坂本宿


25.4km 2020年9月19日~20日
1週間前の天気予報は雨でしたが、3日前から曇りに変わったので、せっかくの4連木のチャンスを逃してはならないと思い決行しました。
軽井沢のショー記念礼拝堂あたりから、急に人もまばらとなり、登りの山道は人影もなく、軽井沢の賑やかさと対照的です。
最後の難所「碓氷峠」越えは確かに高田さんの言うとおり、長くて細くて石がゴロゴロの下り道は、疲労感がただものではなかったです。
2日目には、若くもないのに筋肉痛を感じて、平坦な道も辛かったです。

☟「一日目:軽井沢駅から坂本宿」のタイムラプス動画です。
☟「二日目:横川駅から磯部駅」のタイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大できます。】

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軽井沢ショー記念礼拝堂googleMAPへ

軽井沢ショー記念礼拝堂
カナダ生まれの聖公会宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー[1]によって創設された軽井沢最古の教会。現在の建物の原形が造られたのは1895年(明治28年)で、1922年(大正11年)までにほぼ現在の形に増改築された。礼拝堂の前にはショーの胸像と1903年(明治36年)に村民によって寄贈された記念碑が建っている。隣接してショーハウス記念館が1986年(昭和61年)に復元されている。
【ウィキペディアより】
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碓氷峠見晴台 県境googleMAPへ

碓氷峠(うすいとうげ)
群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は約960メートル。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。
古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記された。近世以降は碓氷峠で統一されている。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記
古来から坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘媛をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。なお『古事記』ではこれが足柄坂だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する。現在でも碓氷峠を境にして、東側が関東文化圏・関東方言に、西側が中央高地文化圏・東海東山方言に分かれている。
碓氷峠の範囲は南北に広いが、その南端に当たる入山峠からは古墳時代の祭祀遺跡が発見されており(入山遺跡)、古墳時代当時の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。7世紀後葉から8世紀前葉(飛鳥時代後期 – 奈良時代初期)にかけて、全国的な幹線道路(駅路)が整備されると、碓氷坂にも東山道駅路が建設された。入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世の中仙道にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。なお、万葉集にみえるように防人たちにとっては故郷との別離の場となっていた。
平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層(僦馬の党)が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化した。これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため昌泰2年(899年)に碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。これが碓氷関の初見である。碓氷関は天慶3年(940年)に廃止され、中世に何度か復活した。
古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。
中世には碓氷峠付近の主要道は現在の大字峠(地図中の旧碓氷峠)を通るようになった。この峠には熊野皇大神社(碓氷峠熊野神社)があり、同神社正応5年4月8日(1292年5月3日)紀の鐘銘から、この頃までには大字峠の道が開設されていたといわれる。入山峠を通る古道よりも坂本付近などが峻険で通りにくかったが、そのため防備に優れていたとされる。
応永30年(1423年)の国人一揆や永享12年(1440年)の結城合戦では、碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた。永禄4年(1561年)に長尾景虎が小田原城の後北条氏を攻めた際に武田信玄が笛吹峠に出陣し、信玄は碓氷峠からの進出をその後数回にわたって行ない、永禄9年(1566年)には箕輪城の攻略に成功して上野国へ進出した。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、豊臣秀吉は前田利家らの北国勢を碓氷峠から進軍させている。
江戸時代には中山道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、関東と信濃国や北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われた。峠の前後には坂本宿・軽井沢宿が置かれ、両宿場間の距離は2里26町(約10キロメートル余)であったが、峠頂部の熊野神社の標高が1200 m、坂本宿の京都口が標高460 mであるから、その標高差は740 mもあり通行者の大きな負担になっている。特に刎石(はねいし)はつづら折れの急坂のうえ落石も多く、峠道最大の難所である。
天明3年(1783年)の浅間山噴火では3尺 (90センチメートル) 以上の砂が積り、碓氷峠往還は8日間にわたって通行不可能になっている。碓氷峠は中山道有数の難所であったため、幕末の文久元年(1861年)に和宮が徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際に一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。なお、約3万人の和宮一行は同年11月9日(1861年12月10日)に軽井沢を発って碓氷峠を越え、翌10日(1861年12月11日)に横川に宿泊している。
明治に入ってもその重要性は変わらず、人々や物資の往来は続いた。1878年9月11日、明治天皇の北陸道・東海道巡幸では、天皇は徒歩にて峠を通過している。明治天皇紀によれば、「峠の険難は馬すらも通はず・・・」とあり、この時期においても難所であることには変わらなかった。1882年に従来の南側に新道が作られ、1886年には馬や車での通行が可能となった。「碓氷新道」と呼ばれたこの新道は国道18号(の旧道)にあたり、坂本宿からその後碓氷湖が作られたあたりまではおおむね和宮道(正しくは、(明治天皇)御巡幸道路であり、和宮道は、熊野神社北側から子持山の南西あたりまでをいう)を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。新道の碓氷峠は、中山道旧道の碓氷峠(新道開通後は旧碓氷峠と呼ばれている)から南に3 kmほどの場所に移動した。この結果、碓氷峠越えの道は3 km長くなったものの平均勾配が半分以下に低減された。その後「旧軽井沢」と呼ばれるようになった地区は中山道旧道に沿った場所で、軽井沢駅周辺は明治時代に開発された新道沿いにあたる。
【ウィキペディアより】
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タゴール記念碑googleMAPへ

タゴール記念像
早くから日本に対する関心も深く、岡倉天心・河口慧海・野口米次郎らとの親交があり、日本人の自然を愛する美意識を高く評価した。5度にわたって訪日している。
1916年、タゴールが来日した折、日本女子大学校創立者の成瀬仁蔵の招きを受けて日本女子大学校で7月に講演をおこない、さらに8月に軽井沢を訪れ(三井邸に滞在)、日本女子大学校が毎年実施していた修養会に講師として招かれ、学生を前に「瞑想に就きて」という講演や瞑想指導をおこなっている。
タゴールは、1924年の3度目の来日の際に第一次世界大戦下の対華21か条要求などの行動を「西欧文明に毒された行動」であると批判し、満洲事変以後の日本の軍事行動を「日本の伝統美の感覚を自ら壊すもの」であるとしている。
タゴールは中国について、「中国は、自分自身というものをしっかり保持しています。どんな一時的な敗北も、中国の完全に目覚めた精神を決して押しつぶすことはできません」と述べた。タゴールのこうした日本批判に対して、友人でもあった野口米次郎とは論争になった。野口は日本は中国を侵略しているのではなく、イギリスの走狗と戦っているのだとした。
「走狗」人の手先になって働く者をいやしんで言う語。
【ウィキペディアより】
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熊野神社googleMAPへ

熊野神社
軽井沢の氏神。当神社は碓氷峠頂上 標高1200mに位置し、自然豊かな軽井沢に鎮座する神社です。また、当神社は、全国的にも珍しい県境、お社の中央で長野県と群馬県に分かれた神社です。
ですので、一つの神社でありながら2つの宗教法人がけんざいし長野県熊野皇大神社と群馬県熊野神社に分かれております。その為、神社をお護りする宮司も2人おりそれぞれ神社のお祀りを行っており、御祈祷・お守り・社務所も別になっております。
当神社は長野県、軽井沢の氏神、長野県熊野皇大神社であります。【熊野神社公式HP】
社伝によれば、ヤマトタケルが東征の帰路で碓氷峠に差し掛かった際、濃霧が生じて道に迷った。この時に一羽の八咫烏が梛の葉を咥えて道案内をし、無事に頂上に着いた事を感謝して熊野の神を勧請したのが熊野皇大神社の由来だとされる。
古代の東山道は当社の南方の入山峠を通っていたと考えられ、中山道にあたる新道が開通した時に現在地に遷座したという説もある。鎌倉時代の1292年5月3日(正応5年4月8日)に松井田一結衆が奉納した鐘には「臼井到下今熊野大鐘事」とある。なお1354年(文和3年)に奉納された多重塔に「当社権現」と刻される事などから、神仏混淆の両部を備えており、神宮寺や仁王門もあったとされる。神宮寺は後に軽井沢町に移転したという。
江戸時代は中山道の要所にあることから賑わい、1695年(元禄8年)には越後高田藩主・松平定逵の通行の際には吉例祈祷をして初穂料として金100疋を奉納される[8]など、大名の中山道通行の際に祈祷を行なう事もあった。また上州で武術が盛んなことから各流派による額の奉納も多く、1826年(文政9年)に気楽流の飯塚臥龍斎、1831年(天保2年)に真神道流柔術の片山庄左衛門、1845年(弘化2年)には日置流弓術の酒井数馬が、それぞれ奉納を行なっている。【ウィキペディアより】
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タマゴダケ?
ハラタケ目テングタケ科テングタケ属のテングタケ亜属タマゴタケ節に分類されるキノコの一種。従来の学名はA. hemibapha (Berk.& Br.) Sacc.だったが、近年の遺伝子レベルでの研究により変更された。
子実体は、初めは厚くて白色を呈する外被膜に完全に包み込まれ、白い楕円体状をなすが、後に頂部が裂開し、かさおよび柄が伸び始め、外被膜は深いコップ状のつぼとして柄の基部に残る。かさは釣鐘形から半球形を経てほぼ平らに開き、老成すれば浅い皿状に窪むことがあり、径4-15cm程度、湿時には粘性があり、深赤色ないし橙赤色を呈し、周縁部には明瞭な放射状の明瞭な条線を生じる。肉は薄くてもろく、淡黄色で傷つけても変色することなく、味・においともに温和である。ひだはやや密で柄に離生し、小ひだをまじえ、比較的幅広く、淡黄色を呈し、縁はいくぶん粉状をなす。柄は長さ6-18cm、径8-15mm程度、ほぼ上下同大、淡黄色〜淡橙黄色の地に帯褐赤色ないし帯赤橙色のだんだら模様をあらわし、中空で折れやすく、中ほどに大きなつばを備える(ただし、針葉樹林帯に生息するものの中にだんだら模様がほとんどない個体も見つかっており、別種の可能性がある)。つばは帯赤橙色を呈し、薄く柔らかい膜質で大きく垂れ下がり、上面には放射状に配列した微細な条溝を備えている。つぼは大きく深いコップ状を呈し、白色で厚い。
胞子紋は純白色を呈し、胞子は幅広い楕円形ないし類球形で無色・平滑、ヨウ素溶液によって灰色〜帯青灰色に呈色しない(非アミロイド性)。ひだの実質部の菌糸は淡い黄色の内容物を含み、ひんぱんにかすがい連結を有している。ひだの縁には、逆フラスコ形・太いこん棒形・円筒形などをなした無性細胞が多数存在する。かさの表皮層はややゼラチン化しつつ匍匐した、細い菌糸(淡橙色ないし淡赤色の内容物を含み、隔壁部にはしばしばかすがい連結を備える)で構成されている。つぼの組織は緊密に絡み合った無色の菌糸からなり、その構成細胞はしばしばソーセージ状あるいは卵状に膨れている。
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めがね橋へgoogleMAPへ

めがね橋へ
行きたかった!
碓氷第三橋梁(うすいだいさんきょうりょう)は、碓氷川に架かる煉瓦造りの4連アーチ橋で、碓氷峠の代表的な建造物である。国鉄信越本線横川駅 – 軽井沢駅間の橋梁の一つで、同区間がアプト式鉄道時代に使われた。設計者は、1882年(明治15年)に鉄道作業局技師長としてイギリスから日本に招聘されたイギリス人技師のパウナル。
1891年(明治24年)着工。高崎駅と直江津駅を結ぶ路線(後の信越本線)のうち、上述の区間だけが未開通だったため急ピッチで工事が進められ、1893年(明治26年)に竣工した。
もっとも開業直後から強度不足による変形が指摘され、これに伴い翌1894年(明治27年)に耐震補強名目で橋脚・アーチ部の双方に対する大掛かりな補強工事が実施された。
その後は信越本線の電化を経て1963年(昭和38年)に新線が建設され、アプト式鉄道が廃止されるまで使用された。全長91 m、川底からの高さ31 m、使用された煉瓦は約200万個に及ぶ。現存する煉瓦造りの橋の中では国内最大規模であり、1993年(平成5年)には「碓氷峠鉄道施設」として、他の 4 つの橋梁等とともに日本で初めて重要文化財に指定された[2]。現在は横川駅からこの橋までの旧線跡が遊歩道「アプトの道」になり、橋上の手すりや国道18号へ通じる階段などが整備されている。また、2012年3月に碓氷第三橋梁~旧熊ノ平駅間1.2kmの延伸工事が完成し、4月1日から横川~熊ノ平間、全長5.9 kmとなった。【ウィキペディアより】
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刎石坂googleMAPへ

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刎石坂 案内板

刎石坂(はねいしざか)
この山全体が柱状節理でできていて、風化により崩れた跡がこのような板状の石だらけの道を造ったのだろうか?【個人的見解より】
十返舎一九
 「たび人の身をこにはたく
 なんじょみち,石のうすいの
 とうげなりとて」
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柱状節理(ちゅうじょうせつり)
節理とは、主に火成岩に見られる現象で,露頭に見られる規則性のある割れ目をいいます。
火成岩に節理ができるのは,熱いマグマが約700~1000℃で固まって岩石になり,その後,常温に冷える過程で体積がわずかに収縮するためです(節理の方向はその冷却面に直交する方向になりやすい)。
節理には主に柱状節理・板状節理・方状節理があります。柱状節理・板状節理は火山岩,方状節理は深成岩である花こう岩によく見られます。【倉敷市立自然史博物館HPより】
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佐藤本陣跡googleMAPへ

佐藤本陣跡
坂本に二つある本陣のうち当本陣は、「佐藤本陣」また「上の本陣」と呼ばれていた。三代将軍家光は、寛永19年(1642)譜代大名にも参勤交代を義務づけた。そのため、文政年間では31大名が坂本宿を往来した。
 寛政2年8月8日、坂本宿で加賀百万石といわれた松平加賀守が江戸へ信州松代真田右京太夫は帰国のため信州へで擦れ違いそれぞれ宿泊している。東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえているため坂本泊まりが必然となり本陣が2軒必要だった。
 安政6年(1859)2月、安中藩主板倉主計頭が大阪御加番(大阪城警備)を命ぜられ登城するとき後輩源左衛門と組頭の甚右衛門は安中藩の役人宅へお祝いに参上している。そして、御本陣番(御休所)は佐藤甚左衛門宅(佐藤本陣)で、諸荷物の伝馬継ぎ立ては問屋番の金井三郎左衛門宅(金井本陣)である。
 宿割りは脇本陣をはじめとして16宿。板倉候はじめ藩士二百余名は、7月17日朝五ッ半(午前9時)坂本に到着した。大名はじめ宮様、日光例幣使、茶壺道中で坂本宿はたいへんな賑わいであったが、その反面難渋も少なくなかった。【案内板より】
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金井本陣跡
坂本宿には、宮様・公家・幕府役人・大名・高僧などの宿泊する本陣が二つあって、当本陣を「金井本陣」または「下の本陣」と称し、間口十間半(約19m)、建坪百八十坪(約594m2)、屋敷三百六十坪(約1,200m2)、玄関、門構え付きの建物であった。「諸大名様方休泊御触帳」によると中山道を上下する大名、例弊使のほとんどは坂本泊まりであった。
 本陣を泊まるのは、最低で百二十四文、最高三百文、平均二百文程度で多少のお心付けを頂戴しても献上品が嵩むので利は少なかったが格式と権威は高く格別な扱いを受けていた。
 仁孝天皇の第八皇女和宮親子内親王は、公武合体論のなかで十四代将軍徳川家茂に御降嫁されるために、京都を出発され文久元年(1861)十一月九日七ッ時(午後四時)金井本陣に到着され、翌十日朝五ッ時(午前八時)に出立された。御降嫁にあたりお付添い・迎え都合三万人ともいわれる人出で坂本宿はおろか中山道筋はたいへんだったであろう。
  都出て幾日来にけん東路や思えば長き旅の行くすゑ
 皇女和宮がご心中を詠まれた歌である。【案内板より】
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鎮魂碑由来(左)と招魂碑由来(右)googleMAPへ

鎮魂碑由来(左)と招魂碑由来(右)
「鎮魂碑由来」
 碓氷路は、古くから中山道と呼ばれ古代から中世にかけて都と東国を結ぶ重要な宮道であった。その後、徳川期には中仙道として整備され旅人、馬子、駕籠、大名行列等で賑い、明治九年になって国道十八号線となった。その後並行して、
 明治二十一年馬車鉄道開設、
 明治二十六年信越線アプト式の開通、
 昭和四十一年複線電化と各種交通機関は幾多変遷を重ねて来ました。今、†に信越線廃線に当たり各種交通機関建設に関わり殉職された方、思わぬ災害や交通事故に遭遇し尊い命を失った人達を慰霊する為鎮魂碑を建立する。
 遊子願わくば一遍の回向を賜らんことを
   合掌
  うすいの歴史を残す会
「招魂碑由来」
碓氷峠は、古代より要衝嶮難の地として、東海道箱根の天嶮と並び称されていました。この地に明治十八年より碓氷アプト式鉄道の建設が開始され、当時の富国強兵の国是により太平洋と日本海を結ぶ鉄道として距離十一・二K、二十六のトンネル、十八の橋梁、高低差五百五十三米の碓氷線が一年九ヶ月の短期間で開通しました。当時の技術を考える時、おそらく人海戦術であったろうと想像されます。この難工事に全国各地より工事人夫が集められ、多数の犠牲者があったと言われています。その慰霊の為、鹿島組の招魂碑が建設されたものと推測されますが、時久しく路傍の片隅で寂しく眠っておりましたので、この度鎮魂碑建立を機会に同地内に移転し、遠い異郷の地で殉職した方々を合せて慰霊いたしました。
遊子願わくは往時を偲んでもの言えず寂しく眠る久泉の人達の冥福を祈らんことを 合掌
  うすいの歴史を残す会
【案内板より】
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峠の釜めし 発祥の地googleMAPへ

峠の釜めし 発祥の地
群馬県安中市にある「荻野屋」が製造・販売する駅弁である。
益子焼の土釜に入れられているという点が特徴の駅弁で、「日本随一の人気駅弁」と評されたこともある。
戦後、旅行者数も増えていったが、この頃の駅弁はどこも似たような内容であったため飽きられていた。荻野屋も例外ではなく、全列車が横川 – 軽井沢間の碓氷峠通過に際し補助機関車の連結が必要なために長時間停車する駅という立地にもかかわらず、業績が低迷していた。そこで、当時の4代目社長であった高見澤みねじは停車中の列車に乗り込み、旅行者に駅弁に対する意見を聞いて回った。意見の大半は「暖かく家庭的で、楽しい弁当」というものであった。
高見澤と、当時社員で後に副社長となる田中トモミは、その意見をどのようにして駅弁に反映するかを考え、弁当と一緒に販売する緑茶の土瓶に着目した。当時の駅で販売されていた緑茶の土瓶は陶器製であったが、陶器は保温性にも優れていた上に匂いも移らないため、「暖かい」「楽しい」という要望をクリアできる。さらに「中仙道を越える防人が土器で飯を炊いた」という内容の和歌にヒントを得て、早速益子焼の職人に相談し、一人用の釜を作成することにした。
こうして当時の「駅弁=折り詰め」という常識を破り、1958年2月1日から販売が開始されたのが「峠の釜めし」である。
当時としては画期的だった温かい駅弁であったことや、『文藝春秋』のコラムに取り上げられたことから徐々に人気商品となり、その後の隆盛へとつながるきっかけとなった。1967年には、フジテレビジョン系テレビドラマ『釜めし夫婦』(池内淳子主演)のモデルにもなった。【ウィキペディアより】
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碓氷神社
創建は不詳であるが碓氷峠に鎮座する熊野神社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。
建久年間(1190~99)、源頼朝浅間山巻狩の際当神社に祈願せられ、尚又当所境内に御所を置かれたにより地名を御所平と称す。
南北朝時代に入ると碓氷郷一ノ宮となり広く信仰を広め、慶安年間(1648~52)に碓氷峠の熊野神社の里宮となり社殿を改築し碓氷神社と改称する。
明治四十二年村内の各社を合祀する。【み熊野ねっとHPより】
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五料の茶屋本陣(ごりょうのちゃやほんじん)
 中山道往来の公家・大名などが休憩所として使用した所で、県の史跡指定になっています。茶屋本陣は隣り合う中島姓の二軒の家で、日常は名主の役宅となっており、一年交代で役務を務めていたと言います。茶屋は歴史に知られる「明治天皇北陸東海道御巡幸」「和宮様降嫁」などのほか大名の参勤交代や日光参りの休憩に使われました。
 建物は共に文化3年(1803)の火災以降に再建されたものですが、茶屋本陣に使用した特徴を表し、妙義山を借景とする庭園もこれを良く示しています。
 二軒の名主宅は個人のものでしたが、昭和年代に松井田町(現安中市)に寄贈、現在は公的管理となって共に一般公開されています。(見学料210円)
 二軒の茶屋はほぼ同一形式で、その建物の位置から各々〝お西〟〝お東〟と呼ばれ、〝お西〟では古文書なども展示しています。【群馬の旅HPより】
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金井本陣 一部?googleMAPへ

金井本陣 一部?
下の本陣は金井藤右衛門家が歴任し明治天皇巡幸の際には行在所として利用、建坪171坪、式台付の玄関と表門がありました。金井家については勉強不足の為に詳細は判りませんでした。一般的には後に倉賀野城(倉賀野宿:群馬県高崎市)の城主となった金井秀景の一族が天正18年(1580)の小田原の役直後に秀景が死去すると各地に帰農したと思われます。金井家一族は特に中山道沿いに勢力があったようで、主に、松井田宿の本陣家、坂本宿の本陣家、安中宿の脇本陣家、板鼻宿(群馬県高崎市)の牛馬宿家などが目立った存在だったようです。
松井田宿は中山道に設けられた江戸日本橋から16番目、坂本宿と安中宿の間の宿場町です。中山道と妙義神社(御神体である妙義山は日本三奇勝:群馬県富岡市)参道と榛名神社(上野国十二社六ノ宮:群馬県高崎市)参道が交わり、信州各藩の年貢米が集められるなど商業が飛躍的発展しました(米宿との異名があった)。宿場外れにある「妙義道常夜灯」は文化5年(1808)に地元の妙義神社の信者達が建立したもので、妙義神社への道しるべであると同時に常夜灯でもあり、当時の民間信仰の遺構として貴重な事から安中市指定文化財に指定されています。又、宿場内の町屋建築の2階袖壁には「妙義登山口」を記したものがあり、妙義神社の参拝時に松井田宿が利用されていた事が窺えます。仲町の交差点が榛名神社へ向かう「榛名道」の近くには小さな道標が残されています。【群馬県:歴史・観光・見所HPより】
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温泉記号発祥の地

googleMAPへ [/caption] 温泉記号発祥の地
一説で群馬県安中市にある磯部温泉が「温泉マーク」発祥の地であるとされている。1661年(万治4年)3月25日、農民の土地争いに決着を付けるため、評決文「上野国碓氷郡上磯郡村と中野谷村就野論裁断之覚」が江戸幕府から出され、添付図の磯部温泉と記した記号が2つ存在した。これら記号が日本最古の温泉記号とされており、温泉から水蒸気が上がる様相を現す記号として具象化されている。また、前述の温泉近くの赤城神社に最古の温泉記号が書かれた関連とし、記念碑がたてられている。【ウィキペディア】

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