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美濃路2 大垣~須賀

15km 2016年12月10日

街道跡が耕地整理で田んぼの畦道になっているところもあり、できるだけ忠実に歩こうと畦道を歩いたりしてきました。耕地整理もいいけどね・・・。
木下藤吉郎の一夜城を初めて訪れました。また墨俣の桜並木を見て、春は綺麗な景色だろうなと想像させられました。ゴールをいつものビールで祝おうとしましたが駅周辺にはそれといった店はなく寂しく家路につきました。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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佐渡常夜灯googleMAPへ

この常夜灯は、嘉永七年(1854)に佐渡の渡しの航路標識、航行安全祈願および伊勢両宮への献灯のために建立されました。佐渡の渡しは、佐渡川(現揖斐川)で隔てられた美濃路を佐渡村(現大垣市東町)の渡船場と対岸の西結村(現安八町西結)の渡船場で結ぶ航路であり、当時の川幅は堤から堤まで約百四十三間(約259m)、常水時は約五十間(約90m)余りでした。通常は渡し船が二艘、予備として鵜飼船が二艘用意されており、その新造や修理は大垣藩の費用で賄われていました。また、将軍や朝鮮通信使が通行する際には、渡船場のやや下流に船をつなぎとめ、その上に板を敷いて橋とする舟橋が架設されました。

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墨俣一夜城googleMAPへ

長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。

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一里塚跡googleMAPへ

親鸞聖人御舊(旧)跡googleMAPへ

親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。
法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承する。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。

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