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甲州街道1 JR下諏訪駅~下諏訪宿~金沢宿~JRすずらんの里駅 22km 


22km 2021年7月30日~31日
中山道完歩にこだわり「日本橋」手前41km地点で足踏みしてから、はや8カ月。退職して初めての街道散歩です。緊急事態宣言や不安定な天候、実家からの呼び出し等結構自由にならない毎日を過ごしております。ですので様々なしがらみから解放される時を満喫できるこの旅を楽しんでいます。是非このゴールまでには新型コロナ感染が落ち着くことを願って歩きます。

☟一日目 JR下諏訪駅~下諏訪宿~上諏訪宿~JR茅野駅12kmのタイムラプス動画です。ご注意!28MB

☟二日目 JR茅野駅~金沢宿~JRすずらんの里駅10kmのタイムラプス動画です。ご注意!24MB

【下記の写真は、クリックで拡大できます。】

1日目

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甲州道中中山道合流之地碑googleMAPへ

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いよいよ甲州街道スタートです。

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諏訪大社下社秋宮googleMAPへ

諏訪大社は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社です。
信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされております。
諏訪大社の歴史は大変古く古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれています。
諏訪大社の特徴は、諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がありません。代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝しております。
古代の神社には社殿がなかったとも言われています。つまり、諏訪大社はその古くからの姿を残しております。
諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。また武勇の神として広く信仰され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として御神徳は広大無辺で、多くの方が参拝に訪れます。
【信濃國一之宮 諏訪大社HPより】
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旧承知橋の一枚岩googleMAPへ

この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。輝石安山岩 重量約拾参屯 伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。【案内板より】
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もりぞうポストgoogleMAPへ

お地蔵さんがマスクをしている風景は見かけましたが、こんなに大きなものは初めてでした。もりぞうはマスクをしていませんでしたが、大丈夫なのかな?
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茶屋橋本跡googleMAPへ

旧甲州街道(下諏訪)沿いにある茶屋跡で、諏訪湖を一望できる江戸時代のおもかげそのままの建物です。諏訪湖のお殿様がお忍びで来られた部屋、こて絵の力蔵(りきぐら)、諏訪藩高島城より拝領のおひねりの松、石燈が見どころの時代屋古民家です。江戸時代後期から200年ほど経った建物となります。【橋本政屋HPより】
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諏訪湖パノラマgoogleMAPへ

諏訪湖は、新生代第三紀の終わり頃からの中央高地の隆起活動と糸魚川静岡構造線の断層運動によって、地殻が引き裂かれて生じた構造湖(断層湖)である。また、糸魚川静岡構造線と中央構造線が交差する地で、諏訪湖を取り囲むように諏訪湖南西側には諏訪湖南岸断層群が、諏訪湖北東側には諏訪断層群がある。「かつて、諏訪湖からの水は東の釜無川方面に流れていたが、八ヶ岳からの噴出物によって堰き止められ、南下するようになった」との説がある。時代が下るにつれて、流入河川からの土砂の堆積や護岸工事などにより、面積は徐々に縮小している。【ウィキペディアより】
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先宮神社googleMAPへ

諏訪大社の主祭神は建御名方命(タケミナカタノノミコト)であるが、この神が元より諏訪の神ではなかったことは『古事記』にある通りである。出雲の大国主命の次男であった建御名方命は、国譲りの談判の際に建御雷神命(タケミカヅチノカミノミコト)に勝負を挑むが相手にならず、命からがら諏訪の地へ逃げ込み最終的に「この地から出ない」ことを誓って赦されるのである。そして諏訪地方を治める神として祀られることになるのだが、この来訪神よりも前から諏訪を治めていた神はどのようになってしまったのだろうか。
その一つの形を示しているのが先宮神社である。この神社の伝承によると、この神社の祭神は建御名方命来訪以前より原住民の産土神として祀られていた存在であったが、建御名方命との抗争に敗れて服従させられたとある。そしてその服従の証として“この神社に鎮座して境内より外へ出ない”ことを誓い、さらに“境内前の川に橋を架けない”習慣が連綿と続けられている。まさに建御名方命が出雲において強制させられた「国譲り」と全く同じ構図の伝承が残されているのである。
ただ不思議なことがある。この神社の祭神の名が“高光姫命(タカテルヒメノミコト)”別名“稲背脛命(いなせはぎのみこと)”という点である。高光(照)姫命は建御名方命の姉神であり、稲背脛命は出雲の国譲りの際に事代主命(コトシロヌシノミコト:建御名方命の兄神)に事を告げる使者となった神である。いずれも諏訪に土着した神と言うよりも、建御名方が元いた地に関係する神の名である。それ故に『古事記』の記載された建御名方命の逸話が、中央にとって有利に作られたものであるとの疑念を持たざるを得ない。
しかしながら現在でもこの神社の前には狭いながらも川が流れており、境内に入る参道には橋が架かっていない。建御名方命に対する先宮神社の神の誓いが破られていないことは、とりもなおさず高天原に対する建御名方命の誓いもいまだに有効であることを示しているようにも見えるのである。【日本伝承大鑑】
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甲州道中五十一里塚googleMAPへ

 江戸時代の初めに、幕府は「五街道」の改修を行って一里塚の制を敷き、江戸日本橋を起点として三十六町(一里、約四km)ごと道の両側に塚を築いて、エノキかケヤキの木を植えさせた。ここ神戸には日本橋からの五十一里塚が築かれ、西には上諏訪の片羽に五十二里塚があった。
 塚上のエノキは大人の五倍(八~九m)くらいある大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、野良に働く里人達にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り崩された。【案内板より】
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大年神社(大歳社)googleMAPへ

 上社に関係する古い神社で現在駅前に位置するが、関係地区として正式には茅野市本町地区に所属する古い歴史のある神社である。大昔、上社現人神である大祝(おおほうり)などが狩をするときに連絡用の狼煙(のろし)上げた場所でもあると伝わる
 尚、茅野市には大小数多くの社(やしろ)やお堂が残っている。社の中には上社の攝社末社といわれるものがある。上社の攝社末社は上十三所・中十三所・下十三所合せて三十九社、上社関係十五か村に分かれていた昔の御頭御社宮司などは主要な社である。攝社は本社に付属し本社に縁故の深い神を祀った社であり、末社は本社に付属する小さい社である。【茅野駅周辺散策マップHPより】

2日目

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宮川寒天蔵跡googleMAPへ

茅野の寒天は棒寒天または角寒天と呼ばれ、真冬に製造されます。
テングサなどの海藻を煮て、溶けだしたものを冷やして固め、屋外の寒さで凍結と解凍を繰り返し、いわばフリーズドライにして作ります。
この作業ができるのは寒さが厳しくなる12月~2月のわずかな期間。
その原材料や製品を保管しておくには大きな収納場所がが必要でした。
寒天産業がさかんになろうとするとき、岡谷で使われなくなった大きな繭倉がいくつもこの町に移築されました。【たてしなの時間HPより】
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三輪神社googleMAPへ

三輪神社は久寿年間(約810年前)に、大和の国三輪村の三輪神社をこの地にお迎えしたものと伝えられ、宮川茅野・西茅野両区の 産土神 である。祭神は大国主命・稲御魂(うがみたま)命・櫛玉命である。
 本殿は文化元年(1804)3月に 矢崎玖右衛門 により建築され、拝殿は文政3年(1820)に建築されたが、明治41年に改築している。
 本殿の彫刻は、大隅流の流れをくむ矢崎玖右衛門の代表作である。江戸時代の建築の、彫刻に技巧をこらした傾向がよく現われている。題材はすべて中国の歴史物語にとり、北面には「蜀の三傑桃園に義を結ぶ」の図、東面は「黄石公張良に兵書を授くる」の図、南面は「玄徳赤兎馬に鞭打って澤渓を越ゆる」の図である。欅を材として、半肉彫で、空間構成もよくととのい、香高い芸術作品である。【案内板より】
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鈿女(おかめ)神社googleMAPへ

鈿女神社の祭神は 古事記 や 日本書記 に書かれている天照大神が天の岩戸に隠れたとき岩戸の前で舞を舞った「天鈿女命(あめのうずめ)」で後には猿田彦神と共に「道祖神」として祭られるようになりました。「天鈿女命(あめのうずめ)」の面は狂言の面としていわゆる「おかめ 面」となりこれが「ひょっとこ」と一緒におかしく踊られるようになりました。このおかめを祭る神社は諏訪に三社あり 長持ちに必ずおかめ面を担ぐ慣わしになっています。
昭和8年当地の商業者が商売繁盛 家内安全 厄除け 縁結び祈願のために、安曇の松川村より分社して以来地元宮川商業会がお守りしています。
福の神としておかめ様があり「笑う門には福来たる」として心の明るさと癒しを与えてくださいます。
鈿女の字を分けて見ると金田女(かねため}神社となりお金の貯まる神社として縁起もよく人々に愛されております。【案内板より】
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名号(みょうごう)碑googleMAPへ

myougouhi2 名号(みょうごう)とは、仏・菩薩の称号をさしていう。名をもって号(さけ)ぶという意味を持つ。「六字名号」・「九字名号」・「十字名号」などがある。
六字名号
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ)
「南無」とは、帰依するを意味し、「阿弥陀仏に帰依する」の意。
『観無量寿経』の「下品下生」に、「かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。」とある。この六字は、すなわち法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行〈因位〉時の名)が修行し、大願大行を成就して正覚を得た上の名であるから、「果号」とも呼ばれる。如来のはたらきのすべて顕すとして、名号の中でも最も尊重され、本尊として用いられる。
このことから蓮如の言行録である『蓮如上人御一代記聞書』に、「一のたまはく、「南無」の字は聖人(親鸞)の御流義にかぎりてあそばしけり。「南無阿弥陀仏」を泥にて写させられて、御座敷に掛けさせられて仰せられけるは、不可思議光仏、無礙光仏もこの南無阿弥陀仏をほめたまふ徳号なり。しかれば南無阿弥陀仏を本とすべしと仰せられ候ふなり。」と述べたことが伝えられ、阿弥陀仏の働きのすべてを顕すとしている。【ウィキペディアより】
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権現の森googleMAPへ

 江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは慶長十五年(1610)ごろである。そのころここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、たびかさなる宮川の洪水や慶安三年(1650)の大火を機に南方の現在地へ移転し、翌四年に金沢宿と宿名を改めた。この宿場は、山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、交通上、物資の流通上重要な所であった。
 文化二年(1805)に金沢宿より幕府に供出した『御分間御絵図御用宿方明細書上帳』に、「宿持鎮守 除地 拾六間四方金山権現森壱ヶ所石御祠御座候 但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候」とあり、権現の森と石祠について報告がされている。
 参道正面に祀られているのがこの石祠で、建立は承応三年(1654)である。青柳宿が移転して金沢宿と名を改めた三年後のことである。金山権現は、祭神は金山彦命で、山の神である。武田信玄の開発した金鶏金山と関係が考えられ、当時すでに祀られていたのではないかと考えられる。
 石祠の左右には、江戸中期ころより庶民の信仰として祀られた御嶽座王大権現・庚申・矜羯羅(こんがら)童子と制吨迦(せいたか)童子の脇侍(わきじ)をともなう不動明王・摩利支天・甲子・秩父坂東西国巡礼供養塔・津島牛頭天王・大六天・如意輪観音・蚕玉大神・道祖神祠・石燈籠など大正期までの石造物二十数基が祀られている。
 また、石祠建立のころの植樹かと思われるサワラの古木が残存し、森に趣を添えており、信仰の場として、また憩いの場として今も江戸時代の名ごりを留めている貴重な場所である。【案内板より】
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中馬宿 馬宿googleMAPへ

 宿場の任務は3つあり、公用荷物優先運搬の人馬の継立て、旅人の休泊、通信業務でした。幕府は、この業務のために人足と馬と馬子を常備させ、問屋が取り仕切っていました。江戸中期以降商業が盛んになり、荷物の動きが多くなると、問屋経由の運搬では間に合わなくなり、私設の中馬荷物問屋(中馬宿)が発達しました。
 この馬宿は、江戸時代から明治三十八年まで小林家が一五〇年間中馬宿(馬宿)を営業しておりました。・・・【案内板より】
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御射山神戸(みやまごうど)の一里塚googleMAPへ

御射山神戸の一里塚
 関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、江戸を政治の中心とするため、慶長七年(1602)に江戸と地方を結ぶ幹線道路として五街道を定めた。甲州街道(道中)はその一つで、最初は甲府までであったが、慶長十五年ころになって下諏訪(中山道)まで延長整備された。
 海道には、往来する人々のために宿場や一里塚が設けられた。一里塚は道中の目安のため一里(約四キロメートル)ごとに街道の両脇に盛られた塚で、大きさは五間(九メートル)四方といわれ、そこにケヤキやエノキなどが植えられた。
 この一里塚は集落の北はずれにあって、江戸の日本橋から四八里め(四九里との説もある)の塚であるといわれ、明治中期までその役割を果たしていた。道路の東塚にはエノキが、西塚にはケヤキが育っていたが、東塚のエノキは明治初期に枯れてしまったという。
 残っている西塚のケヤキは、塚がつくられた慶長年間に植えられたものと推定され、樹齢はおよそ三八〇年を数える。現在では目通り高で幹の太さが周囲六・九メートル、樹髙は約二五メートルの巨木となり、長い歳月と風雪にたえて堂々たる風格をそなえ、樹勢もなお盛んである。
 甲州街道でこのように塚・ケヤキともに往時のものが保存されている例は他になく、実に貴重な存在である。【案内板より】

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