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東海道16 新居町⇒浜松

17km 2017年8月4日
多治見駅始発5:25に乗って、新居町駅に8時前に到着。
頑張って17km 浜松に12時到着でした。
夏は朝早い方が気持ちいいです。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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西町常夜灯googleMAPへ

舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神社西面が秋葉大権現、東面が津島牛頭天王、南面が文化十年二月吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜灯は文化10年に建立されたことが分かる。
舞阪宿では文化六年(1809年)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。
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新町常夜灯googleMAPへ

舞阪には往還沿いに3基の常夜灯がある。舞阪宿では、文化六年(1809年)元日、宿場の大半を焼き尽くす大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、常夜灯を建て、秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。
常夜灯の竿石の四面には、両皇太神社、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月日が刻まれている。新町の常夜灯は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ地域を静めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣リやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。
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見付石垣googleMAPへ

舞阪宿の東はずれに位置している。
石垣の期限詳細は明らかではないが、1709年の地図には既に存在していた。
「見付」は見張番所があった所をいう。
大名が通行する際などには、六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに治安の維持にあたったという。
この付近の地名を「棒鼻(ぼうばな)」という。
棒鼻とは、宿場の境界に「ここより○○宿」と書いた棒杭を立てた場所のこと。
石垣は浜名湖周辺から産出されたチャート石で、江戸時代中期頃に造られたと考えられ、貴重な遺構として文化財に指定されている。
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舞阪宿碑googleMAPへ

東海道五十三次の江戸・日本橋から数えて30番目の宿場町で、旧国は遠江国にある。
中世、遠州灘では、明応8年(1498年)8月25日に明応地震が起こり、遠州灘沿岸は大津波に襲われた。浜名湖開口部は沈下し、今切口が決壊して海水が湖に流入し、塩水湖となった。「明応7年8月の地震津波以前の湖口」の絵図によると舞坂と荒井(現新居)は陸続きで、舞坂は当時「前沢」と呼ばれていたという。
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春日神社googleMAPへ

当社の勧請は応永二年(1395)。
永徳元年(1381)の秋、甲斐国の沙門が当地を訪れ、
神仏の深理を人々に悟し、
人々が一社の建立を願った結果、当社が勧請されたという。
ただし、『遠江國風土記傳』には、
「俗説に馬郡村春日神社を津毛利神社と称す」
とあり、当社を式内社・津毛利神社に比定する説もある。
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熊野神社googleMAPへ

当社は、後三条天皇の延久年間(約940年前)に創建されたと口伝され、紀州和歌山の熊野本宮の神主が、諸国行脚の途中でこの地に足を留めて祭祀したと伝えられ、熊野三社権現と称えられました。
ある時、神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、村人と図って神社の裏山に土をもりあげました。その後、「安政の大地震」が起こり、津波の為多くの死者が出ましたが、この里の人々はこの丘に避難して難を逃れたと伝えられます。又一説には、大津波の犠牲者をこの地に葬り沢山の砂を浜から運んで(浜垢離の起源)、高い墓を築いたと・・・。
大きな墓(つか)であったので大墓、後に高い?、
高塚(たかつか)と呼ぶようになり、地名になったと伝えられています。

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