15km 2017年7月30日
初めて青春18きっぷを使った旅でした。
往復2,800円(定期多治見⇔金山を除く)が2,370円で行けました。
これからは遠くなるばかりなので、使用期間の9月10日まで体力が続く限り使い倒します。
街道散歩始めて、最初の海に出会いました。
車で出かけて観る海とは違い、格段に感激しました。
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大岩神明神社googleMAPへ
天正11年(1583年)海道替えの為、郷民は本郷から元屋敷に引越し、60年後の正保元年(1644年)二川宿加宿の為、更に今屋敷に引越したが、神明宮は正徳2年2月(1712年)に於いて本郷より現在地に遷座した。
当神明宮は、古来より武門武将の崇敬篤く、織田信長は、陣太鼓を寄進して戦勝を祈願し、徳川家康は、御朱印社領三石五斗を奉り、継目して明治維新に至った。

二川宿本陣資料館googleMAPへ
1601年(慶長6年)の東海道設定当初から、三河国渥美郡二川村と大岩村の2村で宿場として人馬継立業務を担当していた。しかし小さな村であり、また1.3kmほど離れていたため、しばらくすると負担に耐えられなくなった。江戸幕府は1644年(正保元年)に二川村を西に、大岩村を東に移動させ、二川宿と加宿大岩町として再構成させた。江戸の日本橋より西に72里3町 (単位)(約283km)に位置し、東の白須賀宿とは1里17町(約5.8km)、西の吉田宿とは1里20町(約6.1km)離れており、町並は12町16間(約1.3km)の長さがあった(二川宿は6町36間、大岩町は5町40間)。二川宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が約30軒ほどあり大岩町は宿ではなく町であったため旅籠は設置されなかった。

白須賀宿の火防googleMAPへ
宿場の移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬期に西風が強く、たびたび火災が発生し、然も大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根が、わら葺きであったことにも依る。
そこで此の火事をくい止めるために、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。
火防の広さは、間口二間(三・六M)奥行四間半(八・二M)で、常緑樹で火に強い槇が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点・六場所の火防が有った。

夏目甕麿邸跡googleMAPへ
子供の加納諸平 は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平 のもとに寄寓。乞われて加納家の養子となり、のちに紀州候に召されて国学を講じ、国学所総裁となる。
諸平には「当代類題和歌選集」のほかに柿園詠草拾遺等の家集をはじめ、数多くの著作がある。安政三年(一八五九)没。

火鎮神社googleMAPへ
祭神として祀られている火之迦具土神は、火を護る神です。秋葉の火まつりや火防せの神社として名高い秋葉神社の祭神でもあります。

棒鼻跡 googleMAPへ
棒鼻とは、駕籠の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったともいわれている。

新居関所 googleMAPへ
浜名川の浜名橋に橋本があり、東海道が交差した港湾都市であった。鎌倉時代には東海道の要衝として宿が置かれ、応永9年(1402年)には足利義満により橋本、天龍、大井、富士河、木瀬河は、今川泰範を「奉行職」として管理されていた。