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東海道13 国府⇒豊橋

11km 2017年7月16日
暑さを想定し家を6時に出発。国府には8時8分に到着し、豊橋駅に10時30分頃到着する。
多少の暑さ凌ぎにはなりましたが、日差しがきつく、今回は松並木もなく、景色も楽しむ余裕もなく、ひたすら歩いてきました。
途中、「子だか橋」の人を生贄にした伝説のある個所を通りましたが、現代では考えられない、古代の人の弱さ、神への畏怖を感じました。
特に古代日本では、洪水が起きた時に、「水神が生贄を求めるのだ」と考えられたからだとのこと。自然の前では人間は弱い生き物かな。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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伊奈村立場茶屋 碑googleMAPへ

一 茶屋の地名
 東海道吉田宿 と御油宿 の中間にあたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋 の地名ができた。
ニ 加藤家と良香散
 茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸(南西30M)一つ残すのみとなった。
三 明治天皇御旧跡
 東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、牧野真一氏宅に保存されている。
四 俳人烏巣
 烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
五 芭蕉句碑
 「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」
六 烏巣句碑
 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」
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子だか橋 碑googleMAPへ

およそ一千年前、菟足神社 には人身御供があり春の大祭の初日にこの街道を通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。
ある年のこと、贄狩りに奉仕する平井村の人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を早足に通りかかり橋の上まで来た。みればわが子である。「ああ、いかにすべきか」 と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」 と、遂に生贄にして神に奉った。それからこの橋のことを、子だが橋と呼ぶようになったということである。
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原田圭岳「老松図」屏風 案内googleMAPへ

この作品は、慶応元年(1865)圭岳64歳の時、一本の老松の大樹を六曲大屏風の画面いっぱいに描いた大作で、非凡な才能がうかがえる作品です。この屏風は当神明社の祭礼の際、神楽殿の背景として使用したものと言われています。
 原田圭岳(1803-1885)は、享和3年に三河国西尾(現西尾市)に生まれ、長じて京都で四条派の岡本豊彦 に学び、天保7・8年頃から江戸で画家として活躍しました。その後安政2年(1855)圭岳54歳のときから吉田(現豊橋市)に永住し、吉田の画家として活躍し、明治18年84歳で没しました。
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吉田西総門googleMAPへ

吉田宿西惣門は、江戸時代東海道筋の坂下町と上伝馬の間にありました。
惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、さらに駒寄の空き地十七坪がありました。この門は、湖西市の本興寺の惣門を参考にしてつくられたもので、その惣門は吉田城大手門を移築1674年に移築した、とのこと。

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