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東海道12 藤川⇒国府

14km 2017年7月8日

暑さの中、松並木の日陰には本当に助かりました。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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藤川本陣跡googleMAPへ

藤川宿は、東海道五十三次の37番目の宿場である。東海道が三河高原を横断する御油断層の谷間から、西の平地への出入口にあり、中世から交通の要地で、1601年(慶長6年)の伝馬制度により設置された。1648年(慶安元年)山中郷から住民を移し、加宿の市場村が東隣して成立した。明治期まで幕府領である。1772年(安永元年)の疫病流行の際には400余人が病死し、宿々困窮による拝借金を受けた。1866年(慶応2年)の旅籠屋32、駕籠屋4と記される。
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宇都野龍硯跡と長屋門googleMAPへ

本宿村医家宇都野氏は古部村(元岡崎市古部町)の出といわれ、宝暦年間(1751~63)三代立碩(りつせき)が当地において開業したのが始まりといわれている。七代龍碩はシーボルト門人青木周弼(しゅうせき)に、医学を学んだ蘭方医として知られている。安政年間 当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(うえぼうそう)(種痘)を施している。郷土史本宿研究会
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欣浄寺googleMAPへ

法蔵寺第八代融翁洞文上人が法蔵寺を真正面に眺望できる洞元山の麓に庵を結び、念仏の隠居生活を送ったのが欣浄寺の始まりです。
阿弥陀三尊、千手千眼観世音菩薩坐像、釈迦三尊図が祀られています。
本堂前の大クスノキは樹齢100年を超えます。また、寺の裏山を登ると本宿町の街並みが一望できます。
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御草紙掛松googleMAPへ

寺伝によれば徳川家康 公は幼少の頃、当寺にて学問、手習いに励んだといわれる。この松は家康公手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから、家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきた。また「御茶屋の松」「御腰掛の松」ともよばれた。
 代々受け継がれてきたが、平成十七年八月、虫害により枯れた。その後「慣れ親しんだ松を後世に伝えよう」と、地元有志「もづく会」の手により、平成十八年三月、四代目の松が植樹された。
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関川神社の楠googleMAPへ

長保3年(1001)創建と伝えられる。
三河国司大江定基の命をうけた赤坂の長者宮道弥太次郎長富が、クスノキのそばに市杵島媛命を祭ったのが始めと伝えられている。例祭日は1月15日。
境内のクスノキ は推定樹齢800年で、 昭和56年3月1日 市指定天然記念物。
また、鳥居のすぐそばには、「夏の月 御油より出て 赤坂や」の松尾芭蕉の句碑がある。
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御油ノ松並木googleMAPへ

御油宿の西端から赤坂宿の東端までの約600メートルにわたって271本(2003年の調査による)の松の木が立ち並ぶ。
夏は日差しを避け、冬は防風・防雪の役目を果たしていた。また江戸時代の滑稽本『東海道中膝栗毛』のなかで、弥次郎兵衛と喜多八がここでキツネに化かされた話が描かれている。
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大社神社googleMAPへ

社伝によると、天元・永観(978~985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとある。
社蔵応永7年(1400年)奉納の大般若経典書には、奉再興杜宮大社大神奉拝600年と有る事から、天元・永観以前より当社地には何らか堂宇が存在し、そこへ改めて出雲より勧請して、神社造営をしたものと考えられる。
当社には、徳川14代将軍 家茂が長州征伐に際して、慶応元年5月8日、戦勝祈願をされ、短刀の奉納をされております。」とある。

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