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東海道11 矢作橋⇒藤川

12km 2017年7月2日
暑かった!なので少し短めです。
もっと朝早く出発したほうがいいですね。
「岡崎城二十七曲り」なんでそんなに曲がり角あるの?
城下防衛とともに、街道筋に店舗を並べ旅人たちを滞留させる経済効果だとか。
矢作橋のたもとにあった「出合之像」の日吉丸と蜂須賀小六が出会う伝説。
知らなかった。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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出合之像googleMAPへ

日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(居間の名古屋市中村公園)の木下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、8才のころから奉公にだされましたが、12才の時の奉公先の陶器屋を逃げ出しました。家へ帰ることもできず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。ここに海東群蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は、「頭をけり、ひと言のあいさつをしないのは無礼である。詫びて行け」と、きっとにらみつけました。小六は子どもにしては度胸があると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内にはいり扉を開けて、小六たちを引き入れました。目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六たちの一行についたといいます。史実とは異なりますが日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と、武将蜂須賀小六の人間的一側面を語る物語として、今なお私たちの心に生き続け、乱世の時代劇を垣間見る挿話となっています。

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連続テレビ小説「純情きらり」ロケ地googleMAPへ

原案は津島佑子の『火の山―山猿記』。脚本は浅野妙子。主要な舞台は愛知県岡崎市。連続テレビ小説シリーズで初の愛知県を主舞台とした作品である。また、同シリーズでは1999年(平成11年)度前期の『すずらん』以来久々に太平洋戦争を取り入れた作品となる。

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岡崎城二十七曲り 板屋町角googleMAPへ

秀吉家臣の田中吉政は家康の江戸入りの後に岡崎城城主となり、城下を拡張整備した。特に東海道を城下町に引き入れ、「二十七曲り」と呼ばれる屈折の多い道筋とした。これは城下防衛とともに、街道筋に店舗を並べ旅人たちを滞留させる経済効果があった。
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田中吉政 像googleMAPへ

天正10年(1582年)頃、宮部家中から5,000石を与えられ、秀吉の甥の羽柴秀次(のちの豊臣秀次)の宿老となり、天正13年(1585年)に秀次が近江八幡43万石を与えられると、吉政はその筆頭家老格となった。このとき、関白殿一老として政務を取り仕切った。また天正14年(1586年)の大政所の三河国下向にもかかわったという記述がある。
織田信長が築いた安土城下の町を八幡城下に移し、町割を行った。江戸時代中ごろまでは、久兵衛町と名づけられた地域が、近江八幡の町の一画に残っていた。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の北条氏を制圧し、諸大名の大幅な配置換えを行った。この結果、徳川家康は関東に転封された。また織田信雄は下野国烏山2万石に減封された。その結果、空いた尾張国には豊臣秀次が入った。小田原征伐でも秀次軍として活躍した吉政は三河国岡崎城5万7,400石の所領が与えられた。尾張堤普請には惣奉行に命じられ、資材の調達にも関わっていた。
文禄4年(1595年)、秀次は自害させられたが、吉政ら宿老にはお咎めはなかった。関白殿一老であった吉政に対しては、切腹を勧める者もいた。吉政には実際は処分はなく、「秀次によく諌言をした」ということで三河国岡崎城主、10万石の大名となった。
吉政は岡崎城を近世城郭に整備した。そして城下の町割には7つの町を堀で囲む田中掘を築造した。また、西側の低湿地の埋め立てを行った。さらに、本来岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備した。

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きらみち道標googleMAPへ

東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と呼んでいて、その分岐点に「吉良道道しるべ」が立っている。

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大平一里塚googleMAPへ

西大平を領していた本多重次の嫡男本多成重が築いた。1928年(昭和3年)道路改修の際北側の塚は破壊され、南側だけが残った。塚の大きさは高さ2.4メートル、底部縦7.6メートル、横8.5メートルの菱形である。
中央には樹齢350年のエノキが茂り、代表的な一里塚の景観を残していたが、1953年(昭和28年)の台風で倒木し、現在は二代目の若榎が樹勢よくのびて風情を保っている。塚は周囲の石垣も崩れて荒れていたが、1970年(昭和45年)、塚のまわりに高さ1メートルの石垣をめぐらせ、鎖で囲み、内部には玉石を敷きつめて整備された。
江戸時代には、南塚の前に石垣を積んで柵をめぐらし、高札を立てることがあり、高札場と呼んだ。また、参勤交代のため諸大名の通過があるたびに、藩から使者をここに差し出し、上りには北側、下りには南側に控えて送迎の礼をさせたので、御使者場ともいわれた。

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