12km 2017年7月2日
暑かった!なので少し短めです。
もっと朝早く出発したほうがいいですね。
「岡崎城二十七曲り」なんでそんなに曲がり角あるの?
城下防衛とともに、街道筋に店舗を並べ旅人たちを滞留させる経済効果だとか。
矢作橋のたもとにあった「出合之像」の日吉丸と蜂須賀小六が出会う伝説。
知らなかった。
☟タイムラプス動画です。
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出合之像googleMAPへ

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岡崎城二十七曲り 板屋町角googleMAPへ

田中吉政 像googleMAPへ
織田信長が築いた安土城下の町を八幡城下に移し、町割を行った。江戸時代中ごろまでは、久兵衛町と名づけられた地域が、近江八幡の町の一画に残っていた。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の北条氏を制圧し、諸大名の大幅な配置換えを行った。この結果、徳川家康は関東に転封された。また織田信雄は下野国烏山2万石に減封された。その結果、空いた尾張国には豊臣秀次が入った。小田原征伐でも秀次軍として活躍した吉政は三河国岡崎城5万7,400石の所領が与えられた。尾張堤普請には惣奉行に命じられ、資材の調達にも関わっていた。
文禄4年(1595年)、秀次は自害させられたが、吉政ら宿老にはお咎めはなかった。関白殿一老であった吉政に対しては、切腹を勧める者もいた。吉政には実際は処分はなく、「秀次によく諌言をした」ということで三河国岡崎城主、10万石の大名となった。
吉政は岡崎城を近世城郭に整備した。そして城下の町割には7つの町を堀で囲む田中掘を築造した。また、西側の低湿地の埋め立てを行った。さらに、本来岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備した。

きらみち道標googleMAPへ

大平一里塚googleMAPへ
中央には樹齢350年のエノキが茂り、代表的な一里塚の景観を残していたが、1953年(昭和28年)の台風で倒木し、現在は二代目の若榎が樹勢よくのびて風情を保っている。塚は周囲の石垣も崩れて荒れていたが、1970年(昭和45年)、塚のまわりに高さ1メートルの石垣をめぐらせ、鎖で囲み、内部には玉石を敷きつめて整備された。
江戸時代には、南塚の前に石垣を積んで柵をめぐらし、高札を立てることがあり、高札場と呼んだ。また、参勤交代のため諸大名の通過があるたびに、藩から使者をここに差し出し、上りには北側、下りには南側に控えて送迎の礼をさせたので、御使者場ともいわれた。