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東海道10 豊明⇒矢作橋

16km 2017年6月24日
3週間ぶりの御無沙汰です。
10km地点から足が重くなり辛かったです。
途中、今川町を通り過ぎて、親近感が沸いてきました。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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電柱表示 今川町googleMAPへ

今川町は、きしめん発祥の地でもある。国の天然記念物であったお富士の松が立っていた。江戸時代以前現在隣接する泉田町の一角に位置していた。だが、東海道開通に伴い同町が賑わい独立し、現在の姿となっている。
きしめんの起源は各説あり、定かとはなっていない。
例えば、国学院大学の加藤有次は、「江戸時代、東海道・芋川(愛知県刈谷市)名物だった平打ちうどん」がきしめんのルーツとの説を唱えている。同地で作られていた平らなうどんは「芋川(いもかわ)うどん」と呼ばれ、江戸時代初期から同地の名物として知られており、同時代に書かれた『嬉遊笑覧』では、「江戸で言う“ひもかわうどん”の起源か?」とも記されている。「芋川」の場所は、江戸期の文献は今岡とするが、一里山町、今川町と諸説ある。
他方、名古屋市教育委員会は、三河池鯉鮒宿(現知立市)で雉の肉を入れたうどんが好評で雉麺(きじめん)と呼ばれて名古屋にまで伝わったという説を主張、名古屋城内にある「きしめん亭」前には教育委員会による説明看板がある。

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池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく)碑googleMAPへ

東海道五十三次の39番目の宿場である。歴史的仮名遣いでは「ちりふ」。現在の愛知県知立市に位置する。江戸の日本橋から約330kmで、当時およそ10日間かかったといわれている。
馬市が立ったことで知られており、歌川広重の「東海道五十三次」にも「首夏馬市」として描かれている。 毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていた。 また三河地方の特産品であった木綿市も開かれていた。
1604年(慶長6年)頃の家康の命によりその10年ほど後にでき当時は並木八丁と呼ばれた街道沿いの松並木は、馬をつなぐためにも使われていた。 戦後も残っていたが昭和34年の伊勢湾台風で多くの古松が倒されてしまったため1970年(昭和45年)に幼松158本の補植が行われた。

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明治用水googleMAPへ

岡崎の庄屋である伊豫田与八郎(1822年-1895年)は、栗寺村(現豊田市)ら支配地域の排水を改善するために用排水計画を立案し、1851年に岡崎藩に提出した。この計画は水路地のある刈谷藩と板倉藩の了解が得られなかったので頓挫した。
都築家が所有していた石井新田(現安城市石井町)の開拓農民であった岡本兵松は、当時開墾したばかりで畑地ばかりだった新田に水路を作り水田に変えるべきだと考え、都築の計画を知った岡本はその実現を決意し、1868年に京都民政局に計画を提出した。
伊豫田・岡本の計画の提出を受けた愛知県庁の働きかけにより、両者の計画は合併することになり、伊豫田・岡本は1875年に愛知県令に用水路掘割溜池不毛地開拓再願書を提出した。地元農民の中には反対する者が多かったが、説得に当たった岡本は「工事ができあがれば、恨む村は三か村、喜ぶ村は数十か村、なにほどのこともない。」と述べたといわれる。1879年に本流の工事が開始され、1890年には完成式典が挙行された。また、同年には中井筋、東井筋の工事が始まり完成している。西井筋は1891年に完成した。またこの年に明治用水と命名された。

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来迎寺一里塚googleMAPへ

猿渡川右岸の来迎寺の集落を通る旧東海道の左右に設けられた一里塚である。昭和36年(1961)に指定された右塚(北塚)は高さ3.5m、基部の幅10m、奥行9mの規模で、西側がやや崩れているものの一里塚の原形をよく保っている。塚上には黒松が植えられている。ただ旧東海道と右塚との間に公民館が建設されており、やや景観が損なわれている。左塚(南塚)は、塚の半分ほどが崩され原形を失っており、塚上には従軍記念碑や戦死者記念碑があったため、右塚との同時指定はされなかったが、原形復帰に努力する地元の意志に鑑み、平成8年追加指定された。現在では塚上の石碑等も撤去され、相並んだ双塚の面影を示すようになった。

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明治川神社googleMAPへ

碧海郡和泉村の豪農だった都築弥厚が碧海台地の安城が原に用水を引く計画を立案したのは文化5年(1808年)のことだが、計画が明治用水として日の目を見たのは都築の死後47年も経った1880年(明治13年)のことだった。明治用水の竣工式と祝賀式の際に神社の創建が決定され、同年12月には水に縁の深い大水上祖神、水分神、高龗神を勧進して神社とした。

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元第一岡崎海軍航空隊配置図googleMAPへ

ミッドウェー海戦での大損失を補填すべく、実施部隊の駐留地として、愛知県碧海郡矢作町・上郷村(現岡崎市・豊田市・安城市)の農地を収用し、岡崎飛行場を造成した。しかしガダルカナル島の攻防が始まり、航空要員の急速養成に迫られたため、教育部隊の設置を優先して整備教育航空隊を設置することとなった。第一岡崎航空隊の前身となる河和海軍航空隊岡崎分遣隊は滑走路の南西に兵舎を構えた。

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和志王山薬王寺googleMAPへ

奈良時代に創建されたと伝えられる。この寺に伝わる薬師如来縁起によると、尊像は、和銅年間(708~715、奈良時代初)に、(現在の宇頭南町にあった)神の御手洗御立笠取(みたらいみたちかさとり)の池から光を放ってこの世に現れになった。この地に住んだ豊阿弥長者(ほうあみちょうじゃ)が念持仏とされたが、後に僧行基を開祖として和志王山薬王寺を創建され納められた。
 淳和天皇天長6年(829、平安時代)春に疱瘡が流行した。長者の子も重い疱瘡を病んだ。そこに、何処からともなく僧が現れた。瑠璃の壷から取り出した薬を子に含ませ、子の五体をさすると病は癒えた。僧は子が遊んでいた銭輪を貰い受け、首にかけて退出され忽然と消えられた。長者は薬師のご利益と気づき尊像にお参りすると、御首に銭輪をかけ、お身体には疱瘡の痕が残っていた。長者は、わが子の身代わりになられた尊像をますます崇敬された。
 天文18年の戦い(戦国時代、1549年にあった織田信秀と今川・松平の安祥城を巡る戦い)により寺は焼かれ、長者の子孫も絶えてしまわれた。
 元和2年(1616、江戸時代初)4月、村人たちが豊阿弥長者らの墓を、この地に移そうとした際に、土中より御首に銭をかけた尊像を掘り出した。不思議なご縁を感じた村人たちは心を合わせ、御堂を造営した。このように記されています。
 平成23年10月吉日     宇頭町

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