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東海道9 七里の渡し⇒豊明

15km 2017年6月3日
日本橋に向け新たにスタートです。
途中、鳴海駅の再開発後の風景を観て、
19年前の用地買収の苦労が蘇ってきました。
最大の試練でした。
有松では「絞り祭り」が行われていて、とても賑わっていました。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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七里の渡しgoogleMAPへ

慶長6年(1601年)、東海道に伝馬制が実施され、53次の宿駅の設置が始まった。熱田(宮)宿と桑名宿の間は海路「七里の渡し」で通行することになった。
元和2年(1616年)、東海道における唯一の海上路で「七里の渡し」が始まった。七里の渡しは、満潮時に陸地沿い航路が約7里(27㎞)で、干潮時に沖廻り航路が約10里(39㎞)であった。
七里の渡しの名称は、移動距離が7里であったことに由来する。渡し船によって移動し、所要時間は約4時間であった。「桑名の渡し」、「熱田の渡し」、「宮の渡し」、「間遠の渡し」などとも言った。天候の悪化などにより、海難事故がしばしば発生する東海道の難所の一つであった。海上を避ける迂回路としては、脇往還の佐屋街道があった。宮宿、桑名宿は渡船場として賑わい、旅籠屋数でそれぞれ東海道における1位と2位の規模を誇った。

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裁断橋址googleMAPへ

宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られていた。なお、永正6年(1509年)の『熱田講式』には既にその名が見られるという。
擬宝珠の銘文には、天正18年(1590年)の小田原征伐で死去した堀尾金助という18歳の男性の菩提を弔うべく、その母親が33回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行ない、その供養としたことが記されている。
伝承によっては、母親は橋を2度かけ直しているとするものもある。息子の33回忌の橋の架け替えは2度目のことであったが、それを見ること無く亡くなったため、その養子堀尾類右衛門が元和8年(1622年)に架け替えたとされ、この際に「息子(金助)の供養のためにこの書き付けを見る人は念仏を唱えてほしい」との母の願いが擬宝珠に刻まれたとされる。 しかし、擬宝珠以外にこれらの伝承を裏付ける同時代史料が存在しないことから、擬宝珠に刻まれている内容以上のことは後世の創作とする見方もある。

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笠寺観音googleMAPへ

正式名称は、笠覆寺(りゅうふくじ)。愛知県名古屋市南区笠寺町にある十一面観音を本尊とする真言宗智山派の寺院。山号は天林山。一般には笠寺観音(かさでらかんのん)の通称で知られる。
寺伝によれば、天平5年(733年、一部文書には天平8年-736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。
その後1世紀以上を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年-935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。
鎌倉時代には塔頭寺院が派生し、僧・阿願によって境内には鐘楼が造られ、尾張三名鐘に数えられる梵鐘が鋳造された。この鐘は建長3年(1251年)の銘があり、愛知県の有形文化財に指定されているが、大晦日には除夜の鐘として参拝者も撞くことができる。
厄よけや藤原兼平と姫の故事にちなんで、縁結びを祈る参拝者も多いという。

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笠寺一里塚googleMAPへ

土を盛った上に大きなエノキが根を張っています。春には水仙、秋には曼珠沙華(マンジュシャゲ(ヒガンバナ))が加わり、昔の東海道の面影をしのばせています。

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丹下町常夜灯googleMAPへ

鳴海宿の西の入ロ丹下町に建てられた常夜灯である。表に「秋葉大権現」右に「寛政四年一一」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。寛政四年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。

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有松絞りまつりgoogleMAPへ

現在の有松地域は江戸時代のはじめには人家の無い荒地であったためこの地域を通る東海道の治安に支障をきたしており、尾張藩は人の住む集落を作るために知多半島からの移住する住民を募り1608年(慶長13年)東海道沿いに新しい集落として有松が開かれた、移住した住民は街道警護の役割もあり武芸に覚えのあるものが多かった。しかし、有松地域は丘陵地帯であるため稲作に適する土地ではなく、また鳴海宿までの距離が近かったことから間の宿としての発展も望めなかった。そこで有松に移り住んでいた住人の一人である竹田庄九朗が、1610年(慶長15年)から1614年(慶長19年)にかけて行われた名古屋城の築城(天下普請)のために九州から来ていた人々の着用していた絞り染めの衣装を見て、当時生産が始められていた三河木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを街道を行きかう人々に土産として売るようになったと言われている。

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