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東海道8 大津⇒三条大橋

さらに強い文章の論理強調
やっと京都まで到達です。
さすが京都は観光客で一杯。
歩いている人(年配ばかり)も多かったです。
伊勢路の分岐点「日永追分」から鈴鹿峠を越えて130kmでした。
いよいよ七里の渡から東京日本橋へ382km。
いざ行かん。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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関蝉丸神社googleMAPへ

社伝によれば、弘仁13年(822年)に小野岑守が旅人を守る神である猿田彦命と豊玉姫命を逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に祀ったのに始まるという。貞観17年(876年)に従五位下を授かった近江国「坂神」がこれに相当する国史見在社と見られている。平安時代中期の琵琶法師で歌人として知られた蝉丸が逢坂山に住んでいたことから、その死去後に彼も上社と下社に祀られるようになった。天禄2年(971年)には円融天皇から下された綸旨により、以後歌舞音曲の神としても信仰されるようになった。

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逢坂山関址googleMAPへ

大化2年(646年)に初めて置かれた後、延暦14年(795年)に一旦廃絶された。その後、平安遷都にともなう防衛線再構築などもあり、斉衡4年(857年)に上請によって同じ近江国内の大石および龍花とともに再び関が設置された。寛平7年12月3日(895年12月26日)の太政官符では「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁じており、この中で会坂関を畿内の東端と定義している。関はやがて旅人の休憩所としての役割なども果すようになり、天禄元年(970年)には藤原道綱母が逢坂越を通った際に休息した事が蜻蛉日記に記されている。
逢坂関は鎌倉時代以降も京都の東の要衝として機能し、南北朝時代以降には園城寺が支配して関銭が徴収されるようになった。しかし、貞治6年(1367年)に園城寺の衆徒が南禅寺所轄の関を破却したため、侍所頭人の今川貞世によって四宮川原関や松坂峠関(ともに現・京都市山科区)とともに焼払われた。その後、逢坂関は再設されたが、寛正元年(1460年)に伊勢神宮造替のために大津に新関が設置された際には、大谷・逢坂の両関が一時廃されており、経済上の理由から室町幕府が園城寺の関を支配下に置こうとしたと考えられる。なおその後も逢坂関は存在し、応永25年(1418年)に足利義持が伊勢神宮に参詣した際に通過したとの記録がある。

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車石 案内googleMAPへ

車石とは、江戸時代の京都周辺の三街道には、人や馬の通る人馬道とは別に、一段低い所に二列に敷かれている一種の軌道があった。この軌道が車道であり、車道である。車道は、幅が九尺(2.7m)で、長さ一尺(90cm)の牛道をはさんで2列に花崗岩の石が敷かれていた。この石が車石で、その上を牛車の車輪が通ることから輪通り石、輪石、輪形石などと呼ばれている。車石は、たて30cmm、横60cm、厚さ25cm~30cmぐらいが標準的な大きさで、輪形石・輪石・輪通石などとも呼ばれていた。

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五条別れ道標googleMAPへ

昭和62年の5月に京都市登録史跡に指定された道標。
五条橋、東西本願寺、大仏方広寺、今熊野観音、清水寺方面への道を示しており、
ここが東海道において要所の道一つであったと考えられます。

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天智天皇 山科陵googleMAPへ

本古墳は、被葬者の実在性にも、天皇陵古墳に比定することにも問題がない、つまり、「天智天皇陵」と呼称してもほぼ間違いのない古墳である。このような古墳は非常に稀であり、他には天武・持統合葬陵の野口王墓があるだけである。
築造年代は7世紀末から8世紀。古墳の大きさは、上円対辺長約46メートル、下方辺長約70メートル、高さ8メートルである。
八角墳は7世紀の中葉になると、大王墓のみが営むようになる。現在知られているかぎりでは、奈良県桜井市の段ノ塚古墳(現舒明天皇陵)、奈良県高市郡明日香村の野口王墓(現天武・持統陵)、一般に文武天皇陵と考えられている明日香村の中尾山古墳、それに御廟野古墳などが八角形平面の墳丘を持っている。日本では初めて大王に固有の型式の陵墓が出現したといえる。これらのほかに、奈良県高市郡高取町の束明神古墳(草壁皇子の真弓山稜か)、方形墳の上に八角形の墳丘を造っている可能性のある明日香村の岩屋山古墳(斉明天皇陵か)などが八角形墳の可能性を指摘されている。

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坂本龍馬 お龍 結婚式場 跡googleMAPへ

当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。
元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。
龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1869年(明治32年)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍(鞆)は1906年まで生きていました。
一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。
この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智足院が仲人をつとめました。
当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。
当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。

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三条大橋googleMAPへ

江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。
日本で最初の駅伝競走が、ここからスタートしたことを記念する説明碑「駅伝の碑」がある。1917年(大正6年)4月27日から3日間にわたり開催された。

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