16km 2017年5月14日
残すところ大津~京都三条10kmとなりました。
途中の専光寺で「この道も あの道も 行き詰った。 もう、道がないと思うけど、行き詰まるのは私の思い。道は必ず、ある。」との説教。心に滲みました。
また、元気のいい消防団の方に声かけられました。「京都まで行くの?」「大津までです。」「あと30分ぐらいかな」「京都は来週行って来ます。」と思わず会話していました。嬉しかったね。
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本陣に誰が休泊しているのか知らせるための札です。本陣の表門脇や宿場の入口に掲示しました。草津宿本陣には木製関札約460枚、紙製関札約2900枚が残されています。
草津宿 案内googleMAPへ
また、草津宿は中山道と東海道の分岐点で、その分かれ目に追分道標が立っています。(草津宿本陣からは歩いて1分程です)道標の上部にある現在の火袋は木製ですが、文政4年(1821)頃につくられた「栗太志」によると、当時は銅製であったと記されており、大変立派なものであったことが分かります。

教善寺googleMAPへ

若宮八幡神社googleMAPへ
その処に当社の造営を勅諚され、仁徳天皇の御木像を御下賜になった。
次いでこの浦(湖辺)上下八町の間、殺生を禁じられた。漁夫等は、これを恐れて特別の浦、別浦と云い、後に別保と呼び、現在も地名として残っている。

篠津神社googleMAPへ

石坐神社googleMAPへ
下って天智天皇の八年に旱魃があり、その時毎夜湖水から御霊殿山に竜燈が飛んでいった。里人の奏聞により派遣された勅使の前で、竜燈は小童の形に変じ、「われは海津見神の幸魂である。旱害を除いてやろう」との御託宣があった。天皇は叡感ななめならず、勅して御霊殿山上に海津見神を斎祀した。毎年九月九日に祭典を行い、旱天の時は炬火を点じて登山し雨乞いをしたが、いつも霊験があったという。前述の幸魂は、彦坐王の霊ともいわれる。
壬申乱後、天下の形勢は一変し、近江朝の神霊の「天智帝・大友皇子・皇子の母宅子媛」を弔祭できるのは一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀するのは禁じられていた。そこで持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に神殿を建てて御霊殿山の霊祠を遷すと共に相殿を造って近江朝の三神霊をひそかに奉斎した。この時から八大龍王宮と称え、石坐神社とも称した。
光仁天皇の宝亀四年、石坐神社に正一位勲一等を授けられ、「鎮護国家の神社なり」との勅語を賜っている。ここにはじめて、近江朝の三神霊が公に石坐神社の御祭神として認められたのである。