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東海道5 関⇒三雲

36km 2017年5月③・4日
1泊2日で徒破。本当は2泊3日で草津まで行きたかったけど、体力持たず断念。
流石に鈴鹿峠は難所でした。悪いことに直前に昼食を摂ってしまったので最悪でした。
途中、父子が自転車で私の横を通り過ぎ登っていきました。父が大声で励ましとも檄とも言えない大声の中、子供が黙々とペダルを漕いでいました。こどもの日を迎えるにあたり刺激的な光景でした。自分は子供に対してあそこまで情熱があるのか?
私は一人黙々と歩いていました。

☟タイムラプス動画です。

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関地蔵院googleMAPへ

せきの地蔵さんに振袖きせて奈良の大仏むこに取るの俗謡で名高い関地蔵院。天平13(741)年、奈良東大寺で知られる行基菩薩が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。この本尊は日本最古の地蔵菩薩で、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されていると言われています。境内の本堂、鐘楼、愛染堂の3棟の建物は国の重要文化財に指定。
元禄8年(1695)に記された『地蔵院略縁起』には、「昔日紫野大徳寺の一休和尚関東行脚の時、所の者開眼を請ひければ即ち衣の襟を尊像へ供養し給うなり。」とあります。
また、寛政9年(1797)に発行された『東海道名所図会』には、このように書かれています。
修繕をした地蔵の開眼供養をしてほしいと考えていた村人たちが、関宿を通りかかった一休和尚に頼んだところ快く引き受けてくれました。しかし、一休和尚は「釈迦はすぎ 弥勒はいまだ いでぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまいました。これに怒った村人たちは別の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じました。あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったといいます。

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筆捨山 案内googleMAPへ

筆捨て山は、江戸期には関宿と坂下宿との間の(旧)東海道に沿う形であり、東海道が国道1号へと移ってからは東海道とは鈴鹿川を挟んだ対岸の地となっている。本来、この山の呼称は岩根山であったが、室町時代の絵師である狩野元信が沓掛(関町沓掛)でこの山を描こうとしたところ、2日目に雲や霞が発生して漂ってしまい山の全景が前日とは大きく異なってしまったため、描くのを断念して筆を捨てたことから筆捨山と呼ばれるようになったと伝えられる。

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万人講灯籠常夜灯googleMAPへ

江戸時代の中頃、四国の金毘羅神社の常夜燈として鈴鹿峠に建てられ、東海道を往来する行商人信者が常夜燈に火を燈し、鈴鹿峠より伊勢の海遥か彼方四国金毘羅神社に航海と道中の安全を祈願されていました。
 重さ38t高さ5m44cmの臣大な石燈籠は、山中村高幡山天ヶ谷より運び出され、地元山中村をはじめ坂下宿、甲賀谷の人達、三千人の奉仕によって出来上がったものと言われています。
 現在は、国道1号線の鈴鹿トンネルの上で、往来する車や人々の交通安全を見守っています。

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田村神社googleMAPへ

鈴鹿山の悪鬼を平定した坂上田村麻呂公が、残っていた矢を放って「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに自分を祀れ」と言われて、矢の落ちたところに本殿を建てたとされている。田村麻呂公が亡くなられた弘仁2年(811年)の翌年となる弘仁3年(812年)に、田村麻呂公の霊が鈴鹿の地に遷られた。重宝に田村麻呂公御所持の楚葉矢の御剣と矢鏃三個がある。

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垂水頓宮御殿跡googleMAPへ

昭和十九年六月二十六日指定
 ここ垂水【たるみ】の頓宮建立跡地【とんぐうこんりゅうあとち】は、平安時代の初期から鎌倉時代の中頃まで、約三百八十年間、三十一人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮【とんぐう】が建立された所である。
 斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名代として、皇祖【こうそ】である天照大神【あまてらすおおみかみ】の御神霊の御杖代【みつえしろ】をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行【ぐんぎょう】の形でご通行されることとなった。京都から伊勢の斎宮【さいぐう】まで、当時は五泊六日もかかり、その間、近江の国では勢多【せた】・甲賀【かふか】・垂水【たるみ】の三ヶ所、伊勢の国では鈴鹿【すずか】・一志【いちし】の二ヶ所で、それぞれ一泊されて斎宮【さいぐう】まで行かれたのである。その宿泊された仮の宮を頓宮【とんぐう】といい、現在明確に検証されている頓宮跡地は、五ヶ所のうち、ただこの垂水頓宮【たるみとんぐう】だけである。

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瀧樹神社googleMAPへ

古くより川田神社として地主神を奉斎し、垂仁天皇四年倭姫命は、天照大神を奉じて近江国甲賀郡垂井日雲宮に至り、ここに座する事四年、この間川田神社にて調膳を司った関係で、大神に神縁深い滝原宮より仁和元年速秋津日子神、速秋津比賣命の二柱の分霊を勧請し之を地主神の城内に合祀し社号を川田神社滝大明神とし岩室郷頓宮牧の産土神と崇め奉り郷中の総社とし、祭礼儀式は特に鄭重を極めた。応永年中地頭岩室主馬頭橘家後が樹の文字を加へ奉り滝樹大明神と改号した。旧社格は郷社。神宮寺は明治まで観音寺としてあった。

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水口宿 東見付跡googleMAPへ

水口宿は、天正13年(1585)の水口岡山城築城の際に形成された城下町として、江戸時代には東海道を中心とした特徴的な「三筋街」として発展した。
東海道五十三次の50番目の宿場である。石橋を境に、東側は道が三筋に分かれた宿場町、西側は水口城の城下町で道が鍵の手になっていた。

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横田渡 案内googleMAPへ

「東海道十三渡し」の一つで、このあたりは野洲川に山が迫り狭くなっているので交通上の要地として重要視されていました。野洲川のこの辺りを横田川といい、幕府の政策により橋を架けられなかったので旅人は難儀をしました。参勤交代等で通行量が増加しますと幕府の道中奉行の支配を受けるようになり、渡し舟や渡し賃の制度が整えられました。3月から9月の増水期は4艘の渡し舟で、10月から2月までの渇水期は土橋を架けて通行するようになりました。また、年間何日かは大水で「川留め」になり、通行ができないこともありました。
この「渡し」を物語るものには泉側に建つ常夜燈です。この常夜燈は文政5年(1822年)地元の村々だけでなく京都・大阪の人々を含めた万人講で建設されたもので、総丈7メートルを超え、笠石2,3メートル四方、周囲17,3メートル玉垣に乗っている東海道随一の規模を誇っています。往時は夜も通行が絶えず、対岸の渡し場がはっきり分かるように目印として建てられました。灯籠の笠の部分に「金比羅大権現」とあるのは水上交通の守護神としての信仰からかと思われます。シーボルトの「江戸参府紀行」には、「この川岸には金比羅さんを祈念した石灯籠、火をともす大きな台がある」と述べています。

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