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東海道4 井田川⇒関

11km 2017年4月22日
朝5時25分多治見発の電車で行って来ました。
遠足の当日のような早起きをしたため、スタート地点の井田川駅を居眠りしてて乗り過ごしてしまい、亀山駅で可愛い女子高生に起こされて慌てて降りてしまった。お礼も言わなかった事に後悔しました。
関の街の風景が何とも言えない安らぎを感じさせてくれました。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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日本武尊能褒野御墓googleMAPへ

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「能褒野墓(のぼののはか)」として第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されている。別称を「丁子塚(ちょうじづか)」とも。
ヤマトタケルの埋葬に関して『日本書紀』景行天皇紀では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の琴弾原(ことひきはら)、次いで河内の旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたとする。

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亀山城西之丸外堀跡googleMAPへ

亀山城 は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体として、岡本宗憲により天正18年(1590)に築かれました。築城時には、本丸・二之丸・三之丸からからなり、天守もあげられていたとされます。
 寛永13年(1636)本多俊次 が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。
 西之丸は、亀山城の西南部分にあたり、家中屋敷と表記されることもあり、作事場や重臣の屋敷地のほか文政6年(1823)には藩校「明倫舎」もおかれました。
 この復元した西之丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でありました。町屋側には番所、復元地南の西之丸側には西之丸櫓がありました。
 この地点は、発掘調査の結果、町屋側から見て、深さが1.8m程度の水堀で、水深は60cm程度でした。この深さでは、城の防御に適さないと思われますが、堀の斜面は急こう配で城内側には土居(防御のための土手)があって、堀底から3m以上の高低差があり、さらに土居上には土塀が設けられていましたので、十分な防御機能を有していたものと思われます。

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明治天皇御召替所跡googleMAPへ

明治13年5月明治天皇は、東京から山梨を行幸され、続いて三重県で伊勢の内宮と外宮を参拝されました。東京へ帰る途中、高田山専修寺や鈴鹿郡亀山を行幸されました。
亀山では、陸軍の大坂鎮台のありのままの様子を見分する為、野村の高平で5月11日、12日に勢揃いを御覧になりました。その折、当家でお休みになられたそうです。

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関の小萬のもたれ松googleMAPへ

江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門 の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋 に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城 下で武術を修業し、天明三年(一七八三)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。
 関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足

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