15km 2017年4月16日
葉桜が綺麗でした。
いよいよ本格的に東海道512kmに突入です。
とりあえず、伊勢路の入り口「日永追分」から「京都三条」までにチャレンジです。
予定では5月中に辿り着ければと思ってます。
写真・動画は後程アップ予定。疲れた~!
☟タイムラプス動画です。
【下記の写真は、クリックで拡大】
美濃国土岐氏の末流にして伊勢路に流れ来りし者ならん。当山の縁起は、小古曽町の南方(内部川の南の五百山)の地に、城郭を構えし時、良位に中るので祈願所として、真言宗米田山珍寳法鎮寺を創建し、この地俗称米田の森と称し、旧跡今に及ぶ。その後、当寺の末弟、真蓮阿闍梨が当町の北面小丘、現大蓮寺西北に、俗称大蓮の地に堂宇を建立し、米田山大蓮寺(だいれんじ)と称す。その後兵火にあい堂宇焼失するが清順法師の代に大蓮より現在地に遷し堂宇再興。この当時文亀二年(1502年)に専修寺第十世真慧上人が三重郡小松村にご逗留、その教化の砌悉く僧俗共に上人に帰依し、上人感激のあまり恵心僧都真筆の阿弥陀尊像一軸を賜る。ここに清順真言宗より真宗高田派に転派す。寛正元年(1460年)に、真宗高田派専修寺末寺米田山大蓮寺として清順上人により開基す。その後、文化十年十二月(1813年)に再建され、本尊は第九世順察上人の記によると、快慶作の阿弥陀如来立像(御丈一尺五寸)が安置されている。當山寶物の鏧には天慶五年(942年)の銘刻す。
杖衝坂(杖突坂とも書く)は日本武尊の故事が伝わる急勾配の坂道。日本武尊は東国を平定しての帰途、伊吹山の神と戦い傷ついたことで病に倒れ、その弱り切った身体をおして大和帰還を目指す。この急坂に差し掛かったところで、剣を杖代わりにして何とか坂を登りきったという。”杖衝坂”と呼ばれる所以である。
佐佐木信綱は、三重県鈴鹿郡石薬師村(現鈴鹿市石薬師町)にて歌人佐々木弘綱の長男として生まれる。1890年(明治23年)、父と共編で『日本歌学全書』全12冊の刊行を開始。1896年(明治29年)、森鴎外の『めざまし草』に歌を発表し、歌誌『いささ川』を創刊。また、落合直文、与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集『この花』を刊行。
歌誌『心の花』を発行する短歌結社「竹柏会」を主宰し、木下利玄、川田順、前川佐美雄、九条武子、柳原白蓮、相馬御風など多くの歌人を育成。国語学者の新村出、翻訳家の片山広子、村岡花子、国文学者の久松潜一も信綱のもとで和歌を学んでいる。『思草』をはじめ数々の歌集を刊行した。1934年(昭和9年)7月31日、帝国学士院会員。1937年(昭和12年)には文化勲章を受章、帝国芸術院会員。御歌所寄人として、歌会始撰者でもあった。その流れで貞明皇后ら皇族に和歌を指導している。
東海道 石薬師宿 は元和二年(一六一六)幕命によって設立され宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。
大名の泊る宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。屋敷は現在より広かったようである。残る文書も多く元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭 の名もみえる。国学者萱生由章(一七一七~七五)もこの家の出である。
昭和7年、佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したものである。以前からあった土蔵(今も裏側にある)を文庫とし、本建物が閲覧書として建設され、伊勢国学に関する多くの版本や写本などを含む貴重な書籍が贈られた。開所式には、明治の元勲田中光顕、三重県知事などが出席された。本文庫は、神宮文庫と並び紹介されたりしている。
信長記には、天文九年(一五四〇)冬、足利将軍が諸国に命じて四十町を一里として一里塚 を築かせ、その上に松と榎とを植えさせたという。[一町は約一〇九メートル]
家忠日記には、慶長九年二月(一六四〇)秀忠が東海道東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を三十六町に改めたという。
くたびれたやつが見つける一里塚 (江戸時代の川柳)
庄野宿は、江戸から数えて45番目の宿。石薬師宿から庄野宿までは3km弱と、東海道で2番目に短い。
庄野宿は東海道で最も遅い1624(寛永元)年に設置されたが、石薬師宿と同じように宿の経営は苦しく当初は継立人馬は100人、100疋と定められていたものを、1758(宝暦8)年には30人、20疋と減らしてもらっている。
現在の庄野町は鈴鹿川左岸を走る国道1号線とJR関西本線に挟まれたひっそりした町で、町並みも古い建物の多く残されていて昔の面影を伝えてくれる。