11km 2016年2月4日
いよいよ一時的に東海道に入って伊勢路を目指します。
今日も天気よく、鈴鹿山脈が綺麗でした。山に詳しくないため、山の名前を間違ってたら教えて下さい。
途中の案内に書いてあったんですが、江戸時代には、東海道を一日9里(36km)も歩いていたんですね。半日16kmがせいぜい。それも1週間おき。連続36kmは超人ワザです!
☟タイムラプス動画です。
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桑名宗社(くわなそうしゃ)の「桑名神社(三崎大明神)」と「中臣(なかとみ)神社(春日大明神)」の両社から成る中の一つ。正式名称の桑名宗社より、「春日神社」、「春日さん」の通称がより多く用いられている。
桑名神社と中臣神社は、ともに延喜式神名帳の伊勢国桑名郡に記載されている式内社である。旧社格は県社。
8月に行われる石取御神事はユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」を構成する祭りの一つで、天下の奇祭としても有名である。
壬申の乱(672年)に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、のちに創建されました。元は新屋敷付近にあったが、江戸時代に鍋屋町に移りました。
江戸時代の矢田町は、東海道 の立場(宿場と宿場の中間にあって、旅人が休憩する茶店などが集っている所)であった。「久波奈名所図会」には、「比立場は食物自由にして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無き事なし」とある。福江町へ曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成三年に再建したもの)もあった。現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家もみられる。
垂仁天皇の頃、皇女倭姫命が天照大御神を永遠に祭るべき宮地を求めて、 南勢へ御巡幸された時しばらくの間、留まった地と謂われている。よって昔から、神宮式年遷宮ごとに、 神宮一ノ鳥居、古殿舎の一部が御下賜になり改築の慣例になっている。明治41年、旧城南村各大字の神社を合祀し、城南総鎮守となる。
この常夜燈は、文政元年(1818) に東海道のみちしるべとして、また伊勢神宮への祈願を兼ねて桑名・岐阜の材木商によって寄進されたものである。石工は桑名の根来市蔵である。
安永は、町屋川(員弁川)の舟運や東海道筋の通行客を相手とする茶店などで賑わった場所であり、この常夜燈はその頃をしのばせる遺物である。