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東海道 32 横浜~日本橋

32km 2017年12月17日・18日
1泊2日でついに日本橋に到達です。
今年は熱田神宮を出発して、佐屋街道40km、伊勢路74km、東海道512km
計約626km踏破しました。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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神奈川宿 料亭田中家googleMAPへ

田中家のあるこのあたりは、むかしから神奈川台町と呼ばれ、かつては海沿いの景勝地として広く知られていました。
この神奈川は、江戸時代には、東海道五十三次の中の、日本橋から数えて、品川、川崎に続く第三番目「神奈川宿」として栄えていました。
その頃の神奈川宿の様子は「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)にも描かれていますが、昼夜を問わず、街道を行き交う人々でたいへんなにぎわいだったそうです。
龍馬の妻・お龍(楢崎龍(ならさきりょう))は、龍馬が暗殺されてから、下関にいたが、その後、土佐、伏見の寺田屋、そして江戸へと、昔の龍馬の知人・縁故をたどって転々とその住まいを変えた。
そして、明治7年(1874年)ころに勝海舟の世話で、この神奈川宿の田中家で仲居として働くようになった。このころお龍は37歳くらいだったらしい。翌明治8年には、呉服商の息子だった西村松兵衛(にしむらまつべえ)と再婚し、横須賀へ住まいを移した。その松兵衛とものちに別居状態となる。
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洲崎大神googleMAPへ

建久二年(1191)、源頼朝が安房国一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。
「江戸名所図会」の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって伸びる参道が、第1京浜に突き当たるあたり。そこが、かつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も作られた。
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生麦事件碑googleMAPへ

生麦事件は、江戸時代末期(幕末)の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。
尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。事件の石碑は、京急本線生麦駅近くに残っている。
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市場の一里塚googleMAPへ

ここは江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治 9年(1877)地租改正 にあたり払い下げられ、左側 の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。
 昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場村一里塚」(添田担書)の碑が建立されました。
 平成元年(1989)横浜市地域文化財として登録されました。
   横浜市教育委員会文化財課 、財団法人横浜国際観光協会
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宗三寺googleMAPへ

中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内に勝福寺という寺院があり、弘長三年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。
「江戸名所図会」に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉髯、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紉を結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。(川崎市掲示より)
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六郷の渡し跡googleMAPへ

慶長5年徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けられ、以来修復やかけ直しが行われました。元禄元年7月の大洪水で六郷大橋は流され、幕府は架橋をやめ、明治に至るまで船渡しとなりました。当初渡船は、江戸の町人が請け負っていましたが、宝永6年3月川崎宿が請け負うことになり、それによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。現在では、川崎側に渡船跡の碑と、明治天皇六郷渡御碑が建ち、欄干に渡船のモニュメントがあります。
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鈴ヶ森刑場遺跡googleMAPへ

1651年(慶安4年)開設される。1871年(明治4年)閉鎖される。220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている。
当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、刑場設置当時浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている。
最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安の変の首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされている。反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされた。その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七といった人物がここで処刑された。
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品川寺 江戸六地蔵googleMAPへ

お地蔵様は、大地が多くの恵みをもって万物を育成するように,地中蔵する福徳を全ての者に分かち与えてくれるという意味で、延命長寿、夫婦和合、子孫繁栄福徳増長の仏様として崇められています。お地蔵様が左手に如意宝珠を持っているのは、一切衆生の願いを満足させるという験しで、錫杖を持っているのは、野や山、いたるところに慈悲の心をもって救済される姿を顕しています。また持ち物がそれぞれ違い、六躰並んで祀られているものは「六地蔵」と呼ばれ、「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)」の衆往を仏道へ導く姿を顕したものです。
江戸六地蔵尊は「地蔵坊正元」と言う僧侶が建てたと言われております。正元は二十四歳のとき不治の病にかかり、明日をも知れない重体になりました。そのことを父母が悲しみ、お地蔵様に病気平癒の祈願をしておりました。その姿を正元は親の嘆きが骨身に堪え、自らも一心に祈願し、病はたちまちにし全快しました。
その後正元はお地蔵様への報恩の為に、金銅丈六の六地蔵尊建立を発願し、湯島天神、神田・愛宕明神の境内で荒行を修め、それを衆生に見せて、江戸御府内を勧進して数万人の施主を募りました。そして、江戸の六街道の入り口に丈六の地蔵尊を一体ずつ建立し、その体内には小さな六地蔵尊の尊像を納めて、道行く人々の無事を守り、江戸御府内の疫病を払い、世の中を浄土にしようと十四年の歳月をかけ建立したのです。
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荏原神社googleMAPへ

和銅2年(709年)9月9日、大和国丹生川上神社より高龗神(水神)の勧請を受けて南品川に創建したのに始まる。
長元2年(1029年)に伊勢神宮より豊受大神・天照大神を勧請。
宝治元年(1274年)に京都祇園社(八坂神社)より牛頭天王を勧請。
康平5年(1062年)、源頼義・義家は奥州安倍氏征伐に際し当社と大國魂神社に参蘢し、品川の海中で身を浄める(※このことより、現在でも大國魂神社の神職は例祭のくらやみ祭に際し当社に参詣して禊を行う)。
以降、源氏、上杉氏、徳川氏など多くの武家の信仰を受け、南品川の鎮守として崇敬さる。後に現在地に遷座。旧鎮座地には今も水神の貴布彌神社(きふねじんじゃ)があるように、もとは「品川貴船社」と称す。
明治3年に郷社に列した。
明治8年、品川貴船社の名を改めて、荏原郡の名をつけて「荏原神社」に改称。
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品川橋googleMAPへ

品川橋の今昔
 この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。
 〔品川橋〕は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には〔境橋〕と呼ばれていました。また別に〔行合橋〕・〔中の橋〕とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。
 〔品川橋〕がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。
平成三年四月一日 品川区
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品川宿本陣跡googleMAPへ

慶長6年(1601年)に、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。目黒川を境に、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿(かちしんしゅく)といった。歩行新宿は、品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が享保7年(1722年)に宿場としてみとめられたもので、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足(かちにんそく)のうち、歩行人足だけを負担したために「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味で名付けられた[2]。 品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、旅籠屋数や参勤交代の大名通過数において他の江戸四宿と比べ数多いという。
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高輪大木戸跡googleMAPへ

1710年(宝永7年)、東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡である。木戸は始め、1616年(元和2年)に芝口門が建てられ、高札場が置かれ札の辻に設けられたが、700メートル南の同所に移転し高札場として大木戸が設けられた。芝口門のあった場所は元札ノ辻と呼ばれた。
木戸は、始めは街道の両側に築かれた幅約20メートルの土塁の間に木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たした。
現在の木戸の大きさは両脇に長さ五間(9メートル) 、幅四間(7.2メートル) 、高さ一丈(10尺=3メートル)の石垣であり、間に柵と門が設けられた。
幕末期に伊能忠敬はここを全国測量の基点としたとされる。近くには忠臣蔵で知られる、赤穂浪士の墓所泉岳寺がある。
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日本橋googleMAPへ

1873年(明治6年)12月20日、政府は太政官達第413号により各府県ごと「里程元標(りていげんぴょう)」を設け陸地の道程(みちのり)の調査を命じている。これによると、東京の日本橋、京都の三条橋の中央を国内諸街道の起程とし、大阪府と各県は府県庁所在地の交通枢要地に木標を建てて管内諸街道の起程とするものとされた。1911年(明治44年)に現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置され、1919年(大正8年)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていた。さらに、1922年(大正11年)に、道路元標の形状、規格、材料など細目が規定された内務省令が発布され、当時1万2000以上あった各市町村の自治体中心部に設置が始められた。
設置場所は府県知事が指定することとされており、ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた。東京市に限っては旧道路法施行令によって日本橋の中央に設置することと定められていた。道路の起終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていた。

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