16km 2017年12月3日
藤沢からも富士山が見れました。残念ながら写真には写ってなかったけど、肉眼ではかすかに見えました。
横浜市へ入ったら流石に道路が入り組んでいて、車優先の街づくりだと歩いていて実感しました。何故か悲しかった。
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茅ヶ崎一里塚googleMAPへ
参勤交代の大名行列もとおり、多くの旅人たちが行きかった東海道。記録によると、塚の右側からは姥島(烏帽子岩)が見えたと伝えられています。また、エノキが植栽されていたことが、延享2年(1745年)の『東海道巡覧記』や幕府の道中奉行が江戸後期に作成した『東海道宿村大概帳』などに記されています。
この場所は、歩道整備工事の一環として平成22年、ポケットパークとして整備され、江戸時代の一里塚と同様にエノキが植栽されています。
一里塚は、市内でも数少なくなってしまった近世茅ヶ崎の東海道の面影と、当時の素朴なぬくもりを伝えてくれる貴重な文化財です。南側の史跡「一里塚」とともに「平成の一里塚」として、末永く市民に愛される場となることを願っています。
茅ヶ崎市教育委員会

藤沢宿 京見附googleMAPへ
清浄光寺の東側に江戸側の見附(江戸方見附)があり、現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりに京都側の見附(上方見附)があった。この範囲が藤沢宿である。
境川に架かる大鋸(だいぎり)橋(現遊行寺橋)を境に、江戸側(東岸)の大鋸町[注釈 1](後に西村が分立)は相模国鎌倉郡、京都側(西岸)の大久保町、坂戸町は同国高座郡に属した。
清浄光寺(通称:遊行寺)が近くにあり、手前の大鋸橋の京都側南東には江島神社の一の鳥居があり、ここから絵の手前右手へ江の島道が約1里(約4km)の距離で江の島に通じていた。また八王子道(現・国道467号)のわきには源義経が祀られている白旗神社がある。幕末には70軒以上の旅籠があった。

遊行寺googleMAPへ
俣野の領主だった俣野氏の一族である俣野五郎景平が開基。景平の弟である遊行上人第四代呑海は、三代智得の死後にその跡を継いで時宗総本山であった当麻道場(無量光寺)に入山しようとするが、呑海が遊行を続けている間に北条高時の命令により当麻にいた真光が止住するようになっていたため、正中2年(1325年)に俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言われる。
伝承では、現在の西俣野の北部の道場ヶ原にも呑海上人の関係する寺があったと言伝えられている(古遊行寺)。その後、伝承によると領地六万貫を足利尊氏より寄進されたとされている。藤沢四郎太郎によるという説もある。次第に当麻道場をしのぐ影響力を持つようになり、藤沢は門前町として発展するようになった。
徳川綱吉の生類憐れみの令では、江戸市中の金魚の保護所となった。