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東海道 29 二宮⇒茅ヶ崎

16km 2017年11月26日
茅ヶ崎からの富士山の風景もかなり良かったです。
だんだんと日本橋に近づくなか、平塚辺りから道路の造りが東京の匂いを醸し出してきてます。
茅ヶ崎駅では、サザンの曲が列車の発着音に使われていると聞いてましたが、初めて生音を聞きました。
日本橋まであと4回の旅で到着予定。年内に達成したい!

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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ガラスのうさぎgoogleMAPへ

太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、ここJR二宮駅(当時国鉄)周辺には艦載機P51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。
この時、目の前で父を失った12歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子さん著)は国民の心に深い感動を呼び起こし、戦争の悲惨さを強く印象づけました。
この像は、私たち二宮町民が平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、多くの方々のご協力をいただき建てたものです。
少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。
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伊達時彰徳碑googleMAPへ

伊達時とは、明治維新以降、この地域の発展に功績のあった人物の一人で、福沢諭吉の影響を受けて民権運動に活躍したそうです。二宮駅の開設など交通網の整備にも功績があって昭和26年に二宮駅南口に石碑が建てられました。
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旧吉田茂邸googleMAPへ

明治17年に吉田茂の養父健三が別荘として建てたもので、吉田茂が昭和19年頃から、その生涯を閉じる昭和42年までを過ごした邸宅です。
政界引退後も多くの政治家が「大磯参り」を行い、また、元西独首相アデナウアー氏や、当時の皇太子殿下(今上天皇)と同妃殿下などの国内外の要人が招かれました。吉田茂没後には、大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されるなど近代政治の表舞台としても利用されました。
豪壮数奇屋建築風の総檜造りの本邸は、建築家吉田五十八の設計のもと、京都の宮大工により建設されました。日本庭園は、世界的作庭家中島健が設計したもので、本邸周辺部分は、日本庭園研究家の久恒秀治によって造られました。
吉田茂がよく散歩をしていたといわれる庭は、心字池や築山のある日本庭園、松林、バラ園、サンルームがあり、その日本庭園にはあまり用いられないカナリーヤシが植えられるなど、海外赴任生活の長かった吉田茂の嗜好の多様性、様式にとらわれない人間性が色濃く反映された庭園となっています。 サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも言われています。軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれます。京都の裏千家の兜門と同じ製作者を京都から呼び寄せて造られ、昭和29年に完成しました。屋根は「檜皮葺き」という、伝統的技法が用いられており、焼失を免れた内門は貴重な建築物です。
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湘南海岸 パノラマgoogleMAPへ

神奈川県茅ヶ崎市から鎌倉市にある海岸。 広義には、湯河原町から藤沢市の江の島を経て横須賀市の自然海岸があるすべての沿岸地域をSHONANと呼ぶ。
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湘南発祥の地googleMAPへ

祟雪と言う人が寛文4年(1664)頃、西行法師の詠んだ名歌
「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮」
を慕って草庵をここに構え標石をたて東海道を往還する旅人に鴫立澤を示し「著盡湘南清絶地」と景勝を讃えて刻んだのがはじめです。
中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい、大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになりました。
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鴫立庵googleMAPへ

神奈川県大磯町にある俳諧道場。京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる。敷地内に建てられた石碑にある銘文「著盡湘南清絶地」から、「湘南発祥の地」とされることもある。場所は大磯の国道1号線(旧、東海道)沿いの鴫立沢にある。
名称は西行の歌「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」(『新古今和歌集』)による。
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新島襄終焉の地googleMAPへ

明治の先覚的教育者新島襄は、天保14年1月14日(1843年2月12日)江戸神田の安中藩邸内で、藩士新島民治の長男として生まれた。
その当時は、近代日本の黎明期に当り、新島襄は憂国の至上抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて元治元年(1868)函館から脱出して米国に渡り、苦学10年キリスト教主義教育による人民強化の大事業に貢献する決意を抱いて明治7年(1874)帰国。
多くの困難を克服して、明治8年(1875)11月29日京都に同志社英学校を設立した。
その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中病にかかり、明治23年(1890)1月23日療養先のここ大磯の地 百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。
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化粧坂(けわいざか)googleMAPへ

大磯八景碑 化粧坂の夜雨
大磯八景は、明治40年頃、大磯町五代町長・宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書を出版したのが始まりです。
 その後、大正12年に大磯小学校第二代校長・朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立しました。
 現在は、「小淘綾の晴嵐」を除く「高麗寺の晩鐘」、「花水橋の夕照」、「唐ケ原の落雁」、「化粧坂の夜雨」、「鴫立沢の秋月」、「照ケ崎の帰帆」、「富士山の暮雪」の七基が残っています。
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平塚宿本陣旧跡 現在風景googleMAPへ

東海道五十三次の7番目の宿場。北条氏の築城で発展した町で、相模川を利用した物資の集散地や、東海道や中原往還、八王子街道の交通の要所として栄えた。
本陣は、海道宿駅の高級旅館で、徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といい、これに次ぐものを 脇本陣と呼んだ。
東海道平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、現在の平塚2104番地神奈川相互銀行支店所在地に南面して 建っていた。総槻造、間口約30米、奥行約68米、東に寄って門と玄関があり、天皇や将軍大名などの御座所は 上段の間であったという。
記録によると、徳川十四代将軍家茂は、文久3年2月、元治2年5月の2回ここに休息している。また明治元年10月と 同2年3月の両度、明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに休息された。
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南湖の左富士googleMAPへ

浮世絵師安藤廣重 は天保三年(一八三二年)に東海道を旅し、後続々と東海道五十三次 の風景版画を発表した。その中の一枚に南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。

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