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東海道 28 小田原⇒二宮

14km 2017年11月19日
富士山が本当に綺麗だった。車窓からのガラス越し撮影だったので色合いが違っていたのが残念です。修正できるかな?前回に比べほぼ直線の平坦道だったので快適でした。残り70km。今年中に日本橋へ到着したい!

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

odawarajyou

小田原城 天守閣googleMAPへ

北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。だが、建築者は、不明である。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地元地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説もある。ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心に遺構が残る。古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界であり続けた。明治初期における小田原町の境界も総構えである。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
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小田原城 常盤木門googleMAPへ

小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。
門の傍らに立つ松(常盤木)にちなんで、小田原城の永久不変の繁栄を願って、常盤木門という名がつけられたと伝えられています。 [/caption]この町は、藩主稲葉氏の「永代日記」、承応3 年(1654)の記事に初めて町名が見られます。
町名は、古くから「よろっちょう」とよばれていました。
町内には、藩主帰城のときの藩御用町人の出迎え揚があったほか、「七里役所」という紀州
(和歌山)藩の飛脚継立所がありました。江戸時代末期には、旅篭(はたご)が5 件ほどあ
り、城下に2 軒あった小田原ちょうちんづくりの家の1 軒がありました。
なお、天保初期(1830 年代)、町内の戸数は105 軒でした。 鍋町は、その範囲がはっきりしていませんが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町です。
小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5 代(1495〜1590 年))から、
町には鋳物師が数多く住んでいました。そのため、鍋町と呼ばれるようになったといわれてい
ます。
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新宿町googleMAPへ

江戸時代前期、この町は、城の大手口の変更によって東海道が北寄りに付けかえられた時
にできた新町です。町は城下の出入り口である「山王口」に接していたので、藩主帰城の時
の出迎え場所であったほか、郷宿(ごうやど:公用で藩御所などへ出向く村人が泊まる宿屋)
や茶店が並び、城下に2 軒あった小田原町ちょうちんづくりの家のうち1 軒がありました。
この町の名の初出は、正保2 年(1645)の藩主稲葉氏の「自分日記」に『新宿足軽小屋』、
『新宿通町御藩所』などとあります。
このように、早くから城下の東の出入り口であることを示しています。
天保初期(1830 年代)、町内の戸数は124 軒でした。
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江戸口見附 一里塚googleMAPへ

小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、 城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。
 この付近は、その総構の最も南部分に当たり、小田原合戦のときには徳川家康隊が山王川の対岸に陣取っていました。
 江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する 重要な門としての役割を担っていました。
 江戸方面から来た場合、上図(文久図)のように門の土塁を一旦右に曲がり さらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに 当っていました。
 なお、ここは江戸日本橋から20里(80km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。
sagamiwan

相模湾googleMAPへ

伊豆半島の石廊崎、伊豆大島、三浦半島の剱崎に囲まれた相模灘(さがみなだ)にあり、そのうち、真鶴岬から三浦半島の城ヶ島以北にかけての海域が相模湾である。ただし、石廊崎、伊豆大島、房総半島の野島崎に囲まれた海域を相模湾とすることもある。
房総半島野島埼 – 伊豆大島南東端 – 伊豆半島沖神子元島 – 御前崎の間に基線が設定されている。これより北側にある相模湾・相模灘は海洋法上日本の内水(内海)とみなされている。
東部は、三浦半島の丘陵が海に迫ったリアス式海岸である。岩石海岸および平磯地形で、小河川の河口付近に断続的に小規模な砂浜をみる。中部には、現相模川やその古流路等により形成された砂浜海岸が広がる。大磯・二宮には海岸段丘の礫浜がみられる。西部は、酒匂川等によって形成された砂浜海岸である。箱根山の山脚部にあたる部分は溶岩が直接海に至ったため、岩または玉石・砂礫から成る。湾内には、一級河川の相模川、および17の二級河川、14の準用河川が流入している。

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