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東海道 27 箱根⇒小田原

18km 2017年11月12日
やっと晴天の中、初冠雪の富士山を拝めました。
下りの石畳はかなりきつかったです。途中駅で止めよかなと思いましたが、頑張って一日の最長18kmを踏破できました。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

hakonesekisyo

箱根関所googleMAPへ

狭義においては江戸幕府によって元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで、相模国足柄下郡箱根(現箱根町箱根)の芦ノ湖湖畔に設置された東海道の箱根関所(はこねせきしょ)を指すが、広義における「箱根関」は江戸時代以前に箱根山山麓に置かれた関所及び江戸幕府が東海道と並行して走る脇往還に設置した関所も含んでいる。
箱根に関所が設置された始期については定かではないが、奈良・平安時代律令期には既に箱根峠を経由する箱根路が開設されるとともにその路上に関所が設置されており、足柄峠の足柄路とともに関東防衛の役割を担った。
平将門の乱の際に平将門が箱根に兵を派遣してこれを封鎖することを考えた。
鎌倉時代には、承久の乱の際に北条義時が御家人から出された箱根路・足柄路に置かれた関を固めて同地で官軍を食い止める策を斥けて兵を上洛させたと伝えられている。箱根関所の防備が問題となっており、『承久記』は『吾妻鏡』とほぼ同様の記事があり、鎌倉時代には箱根関所があったといえるが、箱根関所の設置位置は明らかではない。
承久3年(1221年)、「承久の変に鎌倉幕府が出征の評議をこらし」、「所詮は足柄・箱根両方の道路を固関して相待つべき(『吾妻鏡』)」、の議を述べ、「関を守って日にわたるの条、かへって敗北の因たるべきか(『吾妻鏡』)」とし、箱根関所の防備が問題となったという。
室町幕府の鎌倉府も箱根に関所を設置して関銭の徴収を行った事が知られている。[要出典]康暦2年(1380年)の『円覚寺文書』には、箱根山葦川宿の辺りに関所を3年間限定で設置して円覚寺の造営料に充てたと記された。
その後も応永13年(1406年)に箱根山中の水飲峠に水飲関が置かれたという。戦国時代になると、後北条氏が箱根山の西側(伊豆国)に山中城を設置した際に関所の機能を吸収したという。
永享(1429年から1441年)ごろ、箱根湯本に湯本関が置かれ、関銭を鎌倉大蔵の稲荷神社の修繕にあてられた。箱根はところどころに関所がおかれたが、整備されたのは近世という。
元和4年(1618年)ごろには既に箱根の宿駅であることから、この時期に箱根関所も設置されたものとされている。
後北条氏滅亡後、江戸幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こし、そのため箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を設置して元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置した。
箱根関所は一時期を除いては原則的には相模国足柄下郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。 東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされた。
Mt.fuji

元箱根から観た富士山googleMAPへ

標高3776.24 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。
古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」という呼称は誤りである。
gongenzaka

権現坂googleMAPへ

小田原から箱根路を上った旅人がいくつかの急所、難所を喘ぎながらたどり着き、一息ついたのがこの坂です。
坂の正面には芦ノ湖が望めます。
広重はこの権現坂を誇張気味に描いています。
kyuhakonekaidou

旧箱根街道 石畳googleMAPへ

旧東海道に残る石畳は長い東海道の中でも箱根越えとして旅人には苦難の道でした。箱根八里とは小田原箱根か口ら芦ノ湖畔までの上り四里、三島までの下り四里をいいました。現在、畑宿から湖畔まで往時の石畳が保存整備され多くの人々が当時のおもかげをしのびながら散策しています。
oikomizaka

追込坂googleMAPへ

「新編相模国風土記稿」のふりがな(万葉がな)をみると、フッコミ坂といったのかもしれません。甘茶屋までのゆるい坂道の名です。
sinransyounintooinodaira

親鸞上人と笈ノ平googleMAPへ

親鸞聖人は関東での教化を終え、4人のお弟子さんと京都へ向かいました。
その途中、箱根山の道中で、同行の弟子 性信房(しょうしんぼう)に別れを告げます。
「性信房、私が京に帰った後、関東の地でお念仏の教えを伝えてください 」
性信房は京都まで同行することを懇願しますが、親鸞聖人は諭します。
聖人はそれだけ性信房に信頼を寄せていました。
聖人はこの別れの地で、性信房に笈(おい:荷物を入れるカゴ)を渡します。笈の中には聖人著の「教行信証」が入っていたと言われています。
この別れの地を笈の平(おいのたいら)と言います。 箱根町の南部に位置する「畑宿」。戦国時代、箱根越えのための中間地点として旅人たちが行き来していました。畑宿近辺に今も残る石畳は、箱根越えのために幕府からの命を受けて村人がつくりあげたものです。200年前に生まれた日本の伝統工芸のひとつ、箱根寄木細工の発祥の地でもある。
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女転し坂googleMAPへ

箱根道の難所の一つであり急な坂 道が長く、馬に乗った婦人がこの附近で落馬し死んでしまったことから「女転し坂」と言われるようになったようです。
okuminagaya

御組長屋 碑googleMAPへ

江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋口と井細田口の三つの出入口の沿道には、先手筒(先鋒の鉄砲隊)や先手弓(先鋒の弓組)などの組が住む御組長屋(新宿町組、山角町組、竹花町組)が設けられていた。

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