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東海道 26 原⇒箱根

31km 2017年10月4日・5日
1泊2日かけて箱根峠。芦ノ湖まで行って来ました。さすが天下の嶮。鈴鹿峠よりもきつかったです。
タイムラプスはバッテリー切れで途中までです。後は写真でお楽しみください。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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原宿本陣跡googleMAPへ

幕領で、韮山の江川代官の支配下にあった。本陣は西町に1軒、脇本陣は東町に1軒あった。旅籠屋も25軒ほどあったが、その後、天保9年(1838)に火災の被害にあっている。また、この場所は慶長年間に起きた高潮の被害により、現在の旧国道1号線(県道富士清水線)付近から移動したといわれている。
宿の範囲は『宿村大概帳』によると、今沢村境より一本松新田まで(大塚神明神社東から富士浅間神社西まで)、宿往還の長さは24町42間とある。
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平作地蔵尊googleMAPへ

歌舞伎や人形浄瑠璃の「伊賀越道中双六沼津の段」の中に、平作・呉服屋十兵衛・お米の織りなす悲劇の場面がある。「伊賀越」は、歌舞伎や人形浄瑠璃における三大仇討ちとして「忠臣蔵」「曾我」とともに、広く知られているものの一つである。
この物語は、寛永11年(1634)備前岡山藩池田の家中、渡辺数馬が、姉婿である剣客荒木又右衛門の助けをかりて、弟の仇河合又五郎を伊賀上野城下鍵屋の辻で討った史実を脚色したものである。
複雑な事情と人間関係が織りなすこの物語は、義理と人情の板挟みの物語として当時の人々に受け入れられ、平作じいさんの胸中は、後々の人々の心をうち、語り伝えられてきた。この地蔵尊は子育て延命地蔵であるが、「伊賀越道中双六」の名場面として知られる沼津の段にちなみ、「平作地蔵」とも言われている。
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狩野川googleMAPへ

狩野川名称の由来は、地名の軽野から変化したと考えられる軽野説。第二に焼畑農業のことをカノと呼ぶことから付けられたと考えられる火野説。そして、江戸幕府の資金源の金山があったことから、それが変化してつけられた金川説などいくつもの説があります。
狩野川流域は静岡県東部に位置し、北は富士山、南は天城山に及ぶ細長い形状をしています。南からは狩野川本川が北上、 北からは富士山を源とする支川の黄瀬川が南下して田方平野で合流し、駿河湾に注ぐという特徴的な河川形態をしています。
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八幡神社 対面石googleMAPへ

1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、10月には鎌倉に入り、関東・伊豆を平定、10月20日、平家の東征軍を富士川で迎え撃ち敗走させた。
 翌日には、黄瀬川八幡の地に本営を置き、奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と涙の対面を果たしている。その時、頼朝によって勧請されたのが、この八幡神社だともいわれているが、創建年は定かではない。
境内には、兄弟が腰を掛けたという「対面石」が残されている。
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三島大社googleMAPへ

創建は不詳。後述のように『延喜式』神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡』治承4年(1180年)の記事からである。
現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(伊豆諸島か)、のち賀茂郡大社郷白浜(伊古奈比咩命神社付近か)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座(一説に勧請)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。
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山中城址付近の紅葉googleMAPへ

山中城は、永禄年間(1558年 – 1570年)に北条氏康により築城される。北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、城は東海道を取り込む形で造られていた。
北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。1590年(天正18年)、小田原征伐で豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら3千。間宮康俊は寄親北条氏勝等を撤退させて自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した為に、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出した。しかし戦力差甚だしく猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死した。戦後、城は廃止された。
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かぶと石googleMAPへ

この石は兜を伏せたような形をしていることからかぶと石といわれている。また別の説として傍らの碑銘によれば豊臣秀吉が小田原征伐のとき休息した際、兜をこの石の上に置いたことからかぶと石とよばれるようになったともいわれている。この石は兜石坂にあったものを昭和初め国道1号線の拡幅工事の時この地に移したものである。
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鋏石坂googleMAPへ

箱根峠にかかる坂。峠は当時の浮世絵を見ると、伊豆の国を分ける標柱とゴロゴロした石、それに一面のカヤしか描かれていない。
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芦ノ湖googleMAPへ

箱根火山のカルデラ内にある中央火口丘の一つで、成層火山である神山が、約3000年前に水蒸気爆発と火砕流を起こした際、山の一部が大崩壊を起こす山体崩壊が発生。カルデラ内にあった早川を堰き止めて芦ノ湖が生まれた。
天平宝字元年(757年)、万巻は箱根神社を建立した後、伝承によると、人々を苦しめていた芦ノ湖の九頭龍を調伏し、現在の九頭龍神社本宮を建立して、九頭龍を守護神として祀ったとされる。
江戸時代、駿河国駿東郡深良村(現裾野市)の名主・大庭源之丞は灌漑用に芦ノ湖から箱根山の外輪山(湖尻峠下)を貫通するトンネルを掘ることを考えた。芦ノ湖の水利権を持つ箱根権現社の許可を得て、江戸商人・友野与右衛門の資金協力を受けて、1670年(寛文10年)に用水路を完成させた。この用水は「深良用水」と呼ばれ、現在は狩野川水系黄瀬川支流の深良川となっている。また、日本を代表する用水のひとつとして、農林水産省の疏水百選に選定されている。

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