31km 2017年10月4日・5日
1泊2日かけて箱根峠。芦ノ湖まで行って来ました。さすが天下の嶮。鈴鹿峠よりもきつかったです。
タイムラプスはバッテリー切れで途中までです。後は写真でお楽しみください。
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原宿本陣跡googleMAPへ
宿の範囲は『宿村大概帳』によると、今沢村境より一本松新田まで(大塚神明神社東から富士浅間神社西まで)、宿往還の長さは24町42間とある。

平作地蔵尊googleMAPへ
この物語は、寛永11年(1634)備前岡山藩池田の家中、渡辺数馬が、姉婿である剣客荒木又右衛門の助けをかりて、弟の仇河合又五郎を伊賀上野城下鍵屋の辻で討った史実を脚色したものである。
複雑な事情と人間関係が織りなすこの物語は、義理と人情の板挟みの物語として当時の人々に受け入れられ、平作じいさんの胸中は、後々の人々の心をうち、語り伝えられてきた。この地蔵尊は子育て延命地蔵であるが、「伊賀越道中双六」の名場面として知られる沼津の段にちなみ、「平作地蔵」とも言われている。

狩野川googleMAPへ
狩野川流域は静岡県東部に位置し、北は富士山、南は天城山に及ぶ細長い形状をしています。南からは狩野川本川が北上、 北からは富士山を源とする支川の黄瀬川が南下して田方平野で合流し、駿河湾に注ぐという特徴的な河川形態をしています。

八幡神社 対面石googleMAPへ
翌日には、黄瀬川八幡の地に本営を置き、奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と涙の対面を果たしている。その時、頼朝によって勧請されたのが、この八幡神社だともいわれているが、創建年は定かではない。
境内には、兄弟が腰を掛けたという「対面石」が残されている。

三島大社googleMAPへ
現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(伊豆諸島か)、のち賀茂郡大社郷白浜(伊古奈比咩命神社付近か)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座(一説に勧請)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。

山中城址付近の紅葉googleMAPへ
北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。1590年(天正18年)、小田原征伐で豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら3千。間宮康俊は寄親北条氏勝等を撤退させて自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した為に、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出した。しかし戦力差甚だしく猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死した。戦後、城は廃止された。

かぶと石googleMAPへ

鋏石坂googleMAPへ

芦ノ湖googleMAPへ
天平宝字元年(757年)、万巻は箱根神社を建立した後、伝承によると、人々を苦しめていた芦ノ湖の九頭龍を調伏し、現在の九頭龍神社本宮を建立して、九頭龍を守護神として祀ったとされる。
江戸時代、駿河国駿東郡深良村(現裾野市)の名主・大庭源之丞は灌漑用に芦ノ湖から箱根山の外輪山(湖尻峠下)を貫通するトンネルを掘ることを考えた。芦ノ湖の水利権を持つ箱根権現社の許可を得て、江戸商人・友野与右衛門の資金協力を受けて、1670年(寛文10年)に用水路を完成させた。この用水は「深良用水」と呼ばれ、現在は狩野川水系黄瀬川支流の深良川となっている。また、日本を代表する用水のひとつとして、農林水産省の疏水百選に選定されている。