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東海道 23 清水⇒由比

12km 2017年9月9日
前回で青春きっぷ18が使えないと思ってましたが、今日子供の送迎が無くなり急きょ行って来ました。家からの距離が遠くなるとスタート地点まで辿り着くのも一苦労。これからが思いやられます。
今日も雲で富士山隠れてました。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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興津座漁荘googleMAPへ

元老であった公爵・西園寺公望が1920年(大正9年)に静岡県庵原郡興津町(現在の静岡県静岡市清水区)に建てた別邸。
西園寺は、1916年(大正5年)から興津の旅館、水口屋の勝間別荘で避寒するようになり、興津の地が気に入っていた。そのためこの地に別邸を建てることとなり、1919年9月に竣工した。建設費用は西園寺の実弟住友友純の住友家が全額負担し、同年12月に西園寺に提供された。別荘は後に「坐漁荘」と名付けられたが、これは太公望呂尚が「茅に坐して漁した」という故事にちなむものである。西園寺は一年の四分の三をここで暮らし、夏には御殿場の別荘に避暑に訪れ、東京府東京市神田区駿河台の本邸に入るのは東京に政治的用事があるときだけだった。
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大正天皇在東宮海水浴御成道碑googleMAPへ

後に大正天皇となられる嘉仁皇太子嘉仁親王殿下は、明治22年(1889年)2月に東海道線が開通し興津駅が開業した事で同年7月に興津清見寺に行啓された際に清見潟で海水浴を楽しまわれた。
興津清見潟は海水浴場として全国に知れ渡る。
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清見興国禅寺googleMAPへ

寺伝では奈良時代の創建と伝える。鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。また、その頃、徳川家康は今川氏に人質としてあったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの、薩埵峠の戦いによる家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により戦わずして駿府城に撤退している。
江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた。広島県福山市鞆町にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。また庭園も国の名勝に指定されている。
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駿河湾パノラマgoogleMAPへ

伊豆半島先端にある石廊崎と御前崎を結ぶ線より北側の海域。最深部は水深2500mに達し、日本で最も深い湾である。
江戸時代後期から明治・大正・昭和初期にクロマグロが漁獲されていた。天保3年(1832年)に幕府浜御殿奉行・木村喜繁は長浜村(沼津市)においてマグロの大漁を目撃し、画帳『天保三年伊豆紀行』(静岡県立中央図書館所蔵)として記録しており、マグロ漁師や商談をする網元・商人の姿を描いている。同年3月には滝沢馬琴が『兎園小説余録』において江戸におけるマグロ価格の暴落を記録しており、木村喜繁が目撃したマグロ大漁が影響したと考えられている。

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