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東海道 22 静岡⇒清水

13km
青春18きっぷも最後の使用となりました。
次回12月までお休みしようかなと思ってましたが、今日の風は心地よく
これからが旅の絶好の季節だと感じましたので、
コストがかかっても、この季節を外す訳にいかないと決心しました。
雪を頂いていない富士山の姿を観るのも乙なものですし。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

BANDAIと富士山googleMAPへ
[/caption]BANDAIは、創業者、山科直治(1918年 – 1997年10月28日)の義兄久々津一夫が経営する繊維会社「萬代産業」の玩具製造小会社「萬代屋」として浅草にて創業。「萬代」(万代)とは武経七書の一つに数えられる兵法書「六韜」に登場する語の「萬代不易」(永久不変の意)に由来し、創業者の山科直治が「いつの世も人の心を満たす物を作り、絶えない企業の発展を願う」という意味だとしている。
当初は萬代産業の余りの布切れで作った人形を販売。その後、1950年初の自社製品のゴムまり「リズムボール」発売、「B26ナイトプレイン」が50万個以上のヒットになり、これ以降、金属玩具を主力とするようになる。輸出が中心で国内には輸出の余りを販売しており、玩具業界では評判が悪かったが国内向けの玩具開発をてがけるようになる。創業〜1960年代当時は、教育のバンダイと言われた。
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JR貨物静岡貨物駅googleMAPへ

すべての側線が上下本線の内側へ分岐しており、駅事務所などを除く設備は本線内側に存在する。着発線は下り線(東静岡方面)が1番線から4番線までの4本、上り線(草薙方面)が1番線から3番線までの3本。そのうち最も内側の下り4番線と上り3番線が着発荷役線となっている。コンテナホームは1面で、長さは450メートルほど。ホームの下を大谷川放水路が通る。
コンテナホームは駅構内の北東にあり、その南西端には仕分線が10本ほど存在する。さらに南西には貨車の検修庫、機関車の留置線と検修庫がある。また東海道新幹線の保線基地(静岡保線所)と地下の連絡線で直結している。この連絡線はかつて東静岡駅北口の敷地に存在した貨物ホームへの引き込み線の名残で、現在も新幹線の線路の北側に沿う形で長い引き上げ線の跡が存在する。現在もレール等の資材搬入の為に時折車両の入線がある。
コンテナホームの下り線を挟んだ南側には、トラックプールや営業窓口のJR貨物静岡営業所、乗務員基地の静岡総合鉄道部、保全基地の静岡保全区が入る駅舎がある。ホームとトラックプールは列車運行に支障がないよう地下通路で結ばれている。
ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎音頭(1988年に元静岡機関区跡地で現在の上り荷役線付近においてロケーションを行なった。EF65などが登場する。)
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閻魔王と閻魔坂googleMAPへ

「閻王寺(えんのうじ)と閻魔坂(えんまさか)」
 かつてここには、閻魔大王 をご本尊とする閻王寺という寺があり、此の閻魔大王像を敬えば、極楽に行けるばかりでなく現世における罪も許され、その家は子宝に恵まれて代々繁栄すると伝えられた。このため、村の人々をはじめ、近隣の多くの人々から信仰された。
閻王寺は、明治十年(一八七七)廃寺、その後、閻魔大王像は近くにある鳳林寺に遷座され、なお引き続き大層な信仰を集め、縁日には参詣に訪れる多くの人たちで賑わったとのことである。更に、昭和五十二年(一九七七)熊野神社境内にある薬師堂に遷座、安置され、現在に至っている。
有度郷土誌によれば、江戸時代、閻王寺の門前の東海道 を閻魔坂 といい、傾斜が急であったため馬から落ちてけがをする人が多く、東海道の難所といわれた。これは馬に乗ったまま通り過ぎるのが、閻魔大王にたいし礼を失した崇りであると考えられ、たとえ参勤交代 の大名であっても、馬を下りて通行したそうである。
行き来する人たちの安全を願った住職は、閻魔大王像の胎内仏を後ろ向きにして法要を行ったところ、事故は無くなったとのことである。
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稚児橋googleMAPへ

庵原郡江尻駅〔宿〕に巴川がある。伝承によると、慶長16年(1611)9月、家康公の命令でここに橋が架けられた。渡り初めで、一番年老いた夫婦が先頭を歩いていたが、巴川より奇児が突然現れて橋の上を駿府の方角に歩き去ったという。このためこの橋を稚児橋というようになった。これは河童の類といわれている。〔駿国雑誌〕

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