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東海道 21 金谷⇒静岡

37km 2017年8月25日・26日
休暇をとり、1泊2日の旅でした。
今回の難所は「宇津ノ谷峠」でしたが、現地案内が無くgoogleマップのみの案内だったせいか、街道を発見できず大正トンネルを通過してしまい大正時代に一時的にタイムワープしました。「現代の道具だけに頼ってはいけない」と反省です。ガイドマップなど複数の情報を確認しないと、真実には辿り着けない教訓でした。
あと、老体には青春18きっぷでの行程がきつかったです。やはり新幹線利用かな。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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お七里役所跡googleMAPへ

徳川御三家の一つ、紀州家が重要書類の送信のために、七里(約二八km)ごとに置いた飛脚 の継立所(飛脚小屋)のことです。
 この飛脚は幕府の継飛脚、民間の定飛脚(町飛脚)に対して、「大名飛脚」・七里飛脚」とも呼ばれました。
 紀州家は、江戸~和歌山間(一四六里・約五八四km)に役所を二三ヶ所設け、江戸勤番の中間(仲間・下級武士)の中から、体格も良く才能の優れた者を二人ずつ選び配置しました。極めて華美な格好と才覚から、宿内外の顔役となる者も多かったようです。
 実際の御状箱の継送は、宿問屋から人足を出させるか、賃金を払って人足を雇いました。
 ちなみに上りは掛川宿、下りは丸子宿で引き継ぎました。常便は、月三回(江戸は五の日、和歌山は十の日に出発)、道中は八日かかりましたが、臨時の急便は四日足らずで到着したといいます。しかし、経費がかかるため、いつの頃からか廃止され、定飛脚に委託するようになりました。
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金谷宿 案内絵図googleMAPへ

東海道五十三次の24番目の宿場である。遠江国最東端の宿場町である。
大井川の右岸(京都側)にあり、牧之原台地が迫る狭隘な場所であるが、増水で大井川の川越が禁止されると、江戸へ下る旅客が足止めされ、島田宿と同様、さながら江戸のような賑わいをみせた。
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島田大堤googleMAPへ

天正の瀬替え以降、島田宿 の大井川 沿いに築かれていた川除堤(かわよけづつみ)が、慶長の大洪水(一六〇四~一六〇五年)で決壊し、建設まもない島田宿のすべてが押しながされました。その後、大堤完成までの確かな記録は不明ですが、島田代官長谷川藤兵衛長勝 の頃、向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化しています。恐らくこの頃(正保元年・一六四四年)までには完全な大堤が完成していたことと思われます。これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えています。大堤の規模は高さ二間(約三・六m)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ三一五〇間(五、七三三m)と記録されています。
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島田宿風景googleMAPへ

東海道五十三次の23番目の宿場である。
現在の静岡県島田市。大井川の左岸(江戸側)にあるため、増水で大井川の川越が禁止されると、お伊勢詣りなどの江戸から京都方面へ上る旅客が足止めされ、さながら江戸のような賑わいをみせた。長雨により、滞在費と遊興費に所持金を使い果たすことも珍しくなかった。そのため、所持金が無くなったり宿が満員になった際に家を借りた名残で、島田の旧・東海道沿いには御仮屋という地名がある。
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われた、東海道の難所の一つである。
大井川上流から切り出された木材の集積地としても発展。元禄期には運河が開削され、栃山川、木屋川を経て、和田湊(現在の焼津漁港南部)から江戸に運ばれた。
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須賀神社のクスgoogleMAPへ

このクスは樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、御神木として大切にされてきた大木です。旧東海道 の脇にあって、古くから往来する人々を見守ってきました。近くには「東海道中膝栗毛」などにも名所として登場する鐙ヶ淵など、東海道 ゆかりの史跡があります。
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宇津ノ谷峠 大正トンネルgoogleMAPへ

平安時代、古代東海道にあった小川駅が廃止されたことに伴い、それまで太平洋側にある日本坂を通過していた交通が宇津ノ谷の蔦の細道へと移った。
その後、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、蔦の細道のみでは進軍に不足であったため、現在の旧東海道にあたる別ルートを整備し通過した。この別ルートの方が蔦の細道に比べて峠越えが楽であったため、次第に旧東海道が利用されるようになり、蔦の細道は廃道と化していった(蔦の細道はその後昭和40年代まで忘れ去られていたが、静岡市立長田西小学校の教諭であった春田鉄雄らにより復元・整備された)。
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丁子屋googleMAPへ

慶長元年(1596年)。駿府の町が目の前で焼き払われ、豊臣秀吉は小田原城征伐のため兵を挙げ宇津谷峠を通過。そのような中、初代・平吉はのれんを掲げ、ここに丁子屋が創業しました。
今でこそ「とろろ汁の丁子屋」として親しまれていますが、当時はお茶屋として開業したようです。
その後、富士山の大噴火、大政奉還、世界大戦など時代の転換期にも直面。
松尾芭蕉翁、十返舎一九、歌川広重、様々な紀行物語や俳句、随筆、浮世絵でも残されているように、当時の身分や立場に関係なく、行き交う旅人の道中の無事を祈り、一時のおもてなしを続けております。(丁子屋HPより)
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丸子宿 見付 案内googleMAPへ

丸子宿が、東海道伝馬制度によって宿場町と定められたのは、関ケ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)です。江戸から数えて20番目の宿場町で、江戸期の宿場数は200余りでした。
宿場町は、本陣・脇本陣等が設けられており、本陣は参勤交代の諸大名、幕府の役人、勅役や公家等の宿泊所で、大名宿とも言われたそうです。
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安倍川の義夫の碑googleMAPへ

元文3年(1738) 紀州の漁夫が安倍川を渡ろうとして、仲間とともに溜めた大金百五十両を落としてしまった。この大金を拾ったのが川越人夫の喜兵衛で、旅人を追いかけて、宇津ノ谷峠で大金を渡すことができた。
喜んだ紀州の人はお礼を渡そうとしたが喜兵衛は「当たり前のこと」と受け取らず、困った旅人は駿府町奉行所に礼金を届け渡してほしい頼んだ。
それでも受け取らないので奉行は礼金は返し、代わりに喜兵衛に褒美をあたえたという。

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