さらに強い文章の論理強調
一面の茶畑と延々と続く石畳 まさに旧東海道を歩きました。
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東海道七曲googleMAPへ
新町は、山内一豊 が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和六年(一六二〇)町として認められました。

石川依平生誕の地googleMAPへ
石川依平は、「6歳にして流暢な和歌を詠み、評判を聞いた掛川藩主太田資順(すけのぶ)に召されて題を賜り、御前で歌を奉る。寛政9年(1797)、郡山公の紹介で冷泉為章に入門し本格的に歌道を学ぶ。
17歳のとき、本居宣長の『玉霰』を読んで国学を志し、文化10年(1813)、同郷の栗田土満(真淵・宣長門下)に入門し、国学にも精進した。
近藤芳樹・加納諸平と共に鈴屋門の「一木二平」、また諸平・飯田年平と共に「三平」と称された。交流も広く、近藤芳樹・加納諸平・伴信友らと度々書翰を往復している。門弟は三百人を数えたという。領主掛川侯より、その勉学を賞されて終身3人口を賜った。」とのこと。

賜硯堂成瀬大域出生の地googleMAPへ

下木戸跡googleMAPへ
古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったときは、宿場の治安維持のために橋をはずしたとも伝えられています。
また、宿役人の管理下にあった高札場が木戸の機能を果たしておったという説もあります。

日坂宿旅籠「川坂屋」googleMAPへ
現在の静岡県掛川市日坂に当たり、東海道の三大難所(峠)の一つとされる小夜の中山の西麓に位置する。
宿場の西の入口には、事任八幡宮を擁する。古くは入坂、西坂、新坂など様々な字で記されており、大井川の畔の金谷宿と、塩の道と交差し城下町でもある掛川宿との間にあって、規模も小さかったが、江戸時代に入って正式に五十三次に加えられて整備され、字も日坂に統一された。

佐夜鹿一里塚googleMAPへ
また、元禄三年(一六九〇)の「東海道分間絵図」では日本橋から日坂宿 まで五十二里三十町ですので、この一里塚は五十二里に相当します。
天保十四年(一八四三)の「東海道宿村大概帳」では 日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里二町ですので、この一里塚は五十四里に相当すると思われます。
東海道のルートは時代とともに若干の変更もありなしたが、一里塚の位置が移動したという記録はありません。
いずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などにとっておおよその道程の目安になっていたことと思われます。

菊川坂石畳googleMAPへ

金谷坂 下り口googleMAPへ
そこで江戸時代末期、約400間(約720m)の石畳が「山石」を敷き詰めて造成されました。
この時使われた山石は、牧之原台地の耕作土の下に厚く堆積している「牧之原礫層」に含まれている大井川の河原石と同じ丸石で、現在の大井川の河原石よりもザラついて滑りにくいものです。
明治以降、電話線や電線等の敷設により掘り起こされ、その後舗装されたため、もとの面影は失われていました。

すべらず地蔵googleMAPへ
長い間旅人の足元を守ってきた“滑らない山石を敷いた石畳”に因んで、このお地蔵様を「すべらず地蔵尊」と呼んでいます。
“安全に・滑らず・転ばず・着実に進めるように”と、試験合格・健康長寿・家内安全などを願いお参りする方がたくさん訪れます。