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東海道 20 掛川⇒金谷

さらに強い文章の論理強調
一面の茶畑と延々と続く石畳 まさに旧東海道を歩きました。

☟タイムラプス動画です。

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東海道七曲googleMAPへ

葛川と新町の境に堀割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。ここから東海道 は南に折れ、道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。七曲りは、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていました。
 新町は、山内一豊 が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和六年(一六二〇)町として認められました。
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石川依平生誕の地googleMAPへ

石川啄木?と勘違いして写真を撮りました。後でよく見たら違ってました。
石川依平は、「6歳にして流暢な和歌を詠み、評判を聞いた掛川藩主太田資順(すけのぶ)に召されて題を賜り、御前で歌を奉る。寛政9年(1797)、郡山公の紹介で冷泉為章に入門し本格的に歌道を学ぶ。
 17歳のとき、本居宣長の『玉霰』を読んで国学を志し、文化10年(1813)、同郷の栗田土満(真淵・宣長門下)に入門し、国学にも精進した。
近藤芳樹・加納諸平と共に鈴屋門の「一木二平」、また諸平・飯田年平と共に「三平」と称された。交流も広く、近藤芳樹・加納諸平・伴信友らと度々書翰を往復している。門弟は三百人を数えたという。領主掛川侯より、その勉学を賞されて終身3人口を賜った。」とのこと。
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賜硯堂成瀬大域出生の地googleMAPへ

書家・成瀬大域(成瀬温)は文政10年(1827)古宮のこの地で生まれました。42才の時上京、安井息軒の門に入って書を修めました。 宮内庁に奉職していた明治12年、(1879)王義之の聖教序を臨書するとともに諸葛孔明の出師表を楷書と草書に書き、併せて明治天皇に献上しました。 天皇よりお褒めの言葉とともに楠木正成愛用と伝わる古い硯を賜りました。 このことから庵と自らを 「賜硯堂」 と称しました。明治35年(1902)没。76歳でした。 なお、川坂屋襖に大域の書、法讃寺境内には大域が筆を執られた暁心翁之碑があります。 また、この古硯は平成14年(2002)遺族の方より、十体の書が書かれた面扇とともに掛川市二の丸美術館に寄贈されました。
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下木戸跡googleMAPへ

江戸時代、宿場 の治安維持のため、東西の入り口には木戸 が設けられていました。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では川が門の役割を果たしていました。
 古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったときは、宿場の治安維持のために橋をはずしたとも伝えられています。
 また、宿役人の管理下にあった高札場が木戸の機能を果たしておったという説もあります。
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日坂宿旅籠「川坂屋」googleMAPへ

日坂宿(にっさかしゅく、にっさかじゅく) は、東海道五十三次の25番目の宿場である。
現在の静岡県掛川市日坂に当たり、東海道の三大難所(峠)の一つとされる小夜の中山の西麓に位置する。
宿場の西の入口には、事任八幡宮を擁する。古くは入坂、西坂、新坂など様々な字で記されており、大井川の畔の金谷宿と、塩の道と交差し城下町でもある掛川宿との間にあって、規模も小さかったが、江戸時代に入って正式に五十三次に加えられて整備され、字も日坂に統一された。
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佐夜鹿一里塚googleMAPへ

ここ小夜の中山の一里塚は、慶長九年(一六〇四)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里数を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて五十六里目と云う説があります。
 また、元禄三年(一六九〇)の「東海道分間絵図」では日本橋から日坂宿 まで五十二里三十町ですので、この一里塚は五十二里に相当します。
 天保十四年(一八四三)の「東海道宿村大概帳」では 日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里二町ですので、この一里塚は五十四里に相当すると思われます。
 東海道のルートは時代とともに若干の変更もありなしたが、一里塚の位置が移動したという記録はありません。
 いずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などにとっておおよその道程の目安になっていたことと思われます。
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菊川坂石畳googleMAPへ

通称、菊川坂と呼ばれ、諏訪原城跡から菊川宿へ至る途中の石畳で、道幅は2.9mから4.2m、全長161mに及びます。大小の山石を組み合わせ、やや隙間を開けて敷き詰められています。現在残っている石畳は、今から150年以上前に敷設されたものと考えられており、現状もよく残っています。
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金谷坂 下り口googleMAPへ

江戸時代、金谷坂は急坂なうえに「あおねば」と呼ばれる粘土層が露出しており、雨が降るとぬかるみ大名行列や旅人は大変苦労しました。
そこで江戸時代末期、約400間(約720m)の石畳が「山石」を敷き詰めて造成されました。
この時使われた山石は、牧之原台地の耕作土の下に厚く堆積している「牧之原礫層」に含まれている大井川の河原石と同じ丸石で、現在の大井川の河原石よりもザラついて滑りにくいものです。
明治以降、電話線や電線等の敷設により掘り起こされ、その後舗装されたため、もとの面影は失われていました。
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すべらず地蔵googleMAPへ

平成3年に“平成の道普請・町民一人一石運動”によって甦った「旧東海道金谷坂石畳」の路傍に、有志の手によって建立されたお地蔵様があります。
長い間旅人の足元を守ってきた“滑らない山石を敷いた石畳”に因んで、このお地蔵様を「すべらず地蔵尊」と呼んでいます。
“安全に・滑らず・転ばず・着実に進めるように”と、試験合格・健康長寿・家内安全などを願いお参りする方がたくさん訪れます。

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