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佐屋街道2 岩塚~津島

15km 2017年1月9日

昨日の雨は嘘のように晴れわたった空の下、名古屋市を離れ大治町・あま市・津島市へ入ると何故か楽しくなり、田園風景が自分にはしっくりきていることを実感させられました。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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万場の渡し 秋葉神社googleMAPへ

尾張名所図会の川舟には多くの人、荷物や馬までが乗っており、昼夜を分かたず渡船することができたが、渇水の時期には歩いて川越えができても許されていなかった。舟賃は一人一文、中水のとき三文、大水のとき八文、荷物も五文、十文と区分されていた。(「尾州領郷帳」他参照)
万場宿には本陣と問屋とを兼ねた家もあって、やや宿場としての体裁をたもっていたが、一ヶ月のうち上十五日は万場宿でつとめ、下十五日は岩塚宿でつとめる慣行で、万場の渡しは万場宿が管理していた。渡しの痕跡として秋葉社の南に常夜灯が残っている。

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国宝神社 八剱社相殿googleMAPへ

創建は古く「尾張志」によれば、尾張大国霊神社(現在の稲沢市国府宮)より勧進したという。「延喜式神名帳」に国玉神社、「本国神名帳」に従二位国玉名神と記載されている式内社である。
明治元年(1868)八剱社を合祀。同年明治天皇が東幸の際、勅使より奉幣を享ける。同五年近隣八か村の郷社に、同四十年より神饌幣帛料の供進指定社となる。

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光圓寺googleMAPへ

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神守の一里塚googleMAPへ

佐屋路の一里塚の一つで、県道の脇にその跡が残っている。
北側は今でもこんもりとした小山になっていて、その上に大きなムクの木が茂っている。南側は民家の庭になっていて、通りからは、その跡が見られない。
明治時代には人力車の置き場があって、近くの人達が時々使っていたとのことである。当時の塚の大きさは北側の塚が東西7.3メートル、南北6.7メートル、高さ1.5メートルの楕円形の小山、南側の塚は長径5.5メートル、短径4メートル、高さ1.4メートルの小山であった。

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旧日光橋 欄干googleMAPへ

「尾張名所図会」に「頗る大河にして、佐屋街道には大橋を架す、下流に百町、鹿伏兎、観音寺、大海用等の渡船あり」と照会されている。
また、この佐屋街道は、大坂の陣(1615年)の徳川家康公の通行路であり、徳川三代将軍家光公の上洛の道で、東海道の七里の渡しに代わる陸路として、整備された。

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