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伊勢街道5 明野⇒伊勢神宮

11km 2017年4月2日
やっと1月の熱田神宮から136kmを伊勢神宮まで歩けました。
計画が達成できたことに感謝です。普段見慣れない風景に囲まれて楽しんで歩けました。
桜には少し早かったかな。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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外宮 火除橋googleMAPへ

火除橋は、内宮と外宮に造営されています。
しかし、内宮の火除橋は境内にあり、外宮の火除橋は境外にほど近い場所に造営されています。
実は、これには理由があって、江戸時代には、なんと!外宮も内宮も橋の近くまで民家が立ち並んでいたそうです。
特に内宮では、宇治橋を渡った神域にも、商売をする民家が多数あったそうです。
そのため、火災が発生した場合の「延焼対策(燃え移り対策)」が必要で、火除橋が造られました。

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外宮 豊受大神社googleMAPへ

804年(延暦23年)の『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇の夢に天照大御神(内宮祭神)が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と神託した。この神託を受け雄略天皇22年7月7日 (旧暦)、内宮に近い「伊勢国度会の郡、沼木の郷、山田の原」の地に豊受大御神を迎えて祀った。

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小田の橋googleMAPへ

勢田川のこのあたりは、むかし御贄(おんべ)川と呼ばれた時代がありました。御贄とは神様に奉る御供物のことで神宮の御饌(御供物)をここを通って運んだからでした。
小田の橋はこの川に、古くからかかっていました。そして江戸時代になると多くの文書にその名が書かれています。それは、この橋が外宮と内宮を結ぶ参宮街道にあってよく知られた橋だからです。
この橋をわたってむこうにみえる尾上坂をのぼり日本の五大遊里の一つ古市(間の山)を経て内宮に至る道はかつてお伊勢参りの人々がたどった歴史的な道。往時の賑わいがしのばれるところです。
また、その当時内宮・外宮の御遷宮用材がこの橋詰に着き両宮への御木曳きがここから行われたこともありました。

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猿田彦神社googleMAPへ

日本神話によれば、猿田彦神はニニギの天降りの先導を終えた後、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まった。倭姫命世記によれば、その子孫の大田命は天照大神を祀る地として倭姫命に五十鈴川川上の地を献上した。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、神宮に玉串大内人として代々奉職したが、その宇治土公が邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦を祀っていた。明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社である。
猿田彦神がニニギの先導をしたということから、交通安全・方位除けの神社として信仰されている。

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宇治橋鳥居googleMAPへ

宇治橋の外と内に高さ7.44mの大鳥居が立っていますが、内側の鳥居は、内宮の旧正殿の棟持柱むなもちばしらが、外側の鳥居は外宮の棟持柱が用いられます。さらに20年たつと、内側の鳥居は鈴鹿峠のふもとの「関せきの追分おいわけ」、外側の鳥居は桑名の「七里しちりの渡しわたし」の鳥居となり、正殿の棟持柱となって以来、60年のお勤めを果たしています。

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皇大神宮googleMAPへ

『日本書紀』によれば、天照大御神は宮中に祀られていたが、崇神天皇6年、笠縫邑に移し豊鍬入姫命に祀らせた。垂仁天皇25年、倭姫命が後を継ぎ、御杖代として天照大御神を祀るための土地を求めて各地を巡った。この経路は『日本書紀』にあまり記述がないが、鎌倉時代初期成立と考えられる『倭姫命世記』には詳述されており、その途中に一時的に鎮座した場所は元伊勢と呼ばれる。垂仁天皇26年、伊勢国にたどり着いたとき、「この国に留まりたい」という天照大御神の神託があり、倭姫命は五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀り、磯宮と称したのが皇大神宮の始まりという。鎮座地に関して、伊勢では河川の氾濫が頻発して低湿地が広がっているため、内宮は水害に遭いにくい河岸段丘上に建てられたという説が挙げられている。

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