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中山道32 熊谷宿~鴻巣宿~桶川宿~上尾宿 28km


33km 2020年12月5日~6日
割烹料理店へふらっと入れる歳になり、大宮でも「襷(たすき)」へ入って大将といろいろ話ました。自分より1つ年上だそうで、てっきりオーナーかと思いきや、チェーン店で本部の年下社員からいろいろ指示を受けていたので、お互い昭和世代と若者との考え方の違いについて話が盛り上がりました知らない世界の人と話ができるもの面白いです。案の定2日目は少し2日酔いでスタートしました。

☟一日目 熊谷宿~鴻巣宿16kmのタイムラプス動画です。ご注意!9MB

☟二日目 鴻巣宿~上尾宿12kmのタイムラプス動画です。ご注意!7MB

【下記の写真は、クリックで拡大できます。】

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信州美彩膳

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1段目(左)と2段目(右)

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おしながき

長野駅で新蕎麦頂きました。寒いので暖かいかけ蕎麦は体に染みて美味しかったです。日本人で良かった。四季を感じます。
駅弁美味しかった。「信州美彩膳」つまみが多くて、日本酒に合いました。
信州美彩膳
北陸新幹線が金沢まで開業した平成27(2015)年は、7年に1度の善光寺御開帳の年でもありました。これを記念して長野駅に登場した二段重ねの駅弁が「信州美彩膳」(1100円)です。長野を拠点に駅弁をはじめ、給食・社員食堂なども手掛けている「デリクックちくま」が製造、長野駅の新幹線・在来線改札内にある「科の木」で販売されています。

 

信州美彩膳【おしながき】
(一の段)
●五色の串
(緑)信州ポークカツ(塩味)
(黄)長芋磯辺天麩羅
(赤)福味鶏醤油麹漬け
(白)五平餅(胡麻味噌)
(紫)高野豆腐竜田揚げ 醤油豆絡め
●胡麻豆腐のそばの実あんかけ
●こごみ胡麻和え
●西山産はちく竹 木の芽味噌和え
●野沢菜わさび漬け
【ニッポン放送HPより】

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Maxたにがわ2階建

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Maxたにがわ後部車両

Maxたにがわ
新婚旅行以来、2階建列車に乗ったのは久しぶりです。少し狭く感じられました。
E4系は、オール2階建て新幹線電車“Max(Multi Amenity Express)”の二代目として開発され、1997年12月に東北新幹線で営業運転を開始しました。
エクステリアデザインは、先頭部分の鼻先をぐんと突き出したロングノーズ・デザインが印象的です。また、運転室は航空機のようなキャノピー形で、標識灯もふっくらと盛り上がったスタイルになっています。これらは空力特性を追求して得られたデザインです。
8両編成の両先頭車に分割併合装置を備え、2本連結した16両編成でも運転できます。16両編成時の定員1,634名は、高速車両としては世界最大の定員数を誇り、新幹線の通勤・通学輸送の混雑緩和に貢献しています。【JR東日本HPより】

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熊谷直実像(熊谷駅前)googleMAPへ

熊谷直実
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地とした。熊谷直貞の次男。
熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫・維時(これとき)の6代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、明らかではない。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。
平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して法然の門徒となり蓮生(れんしょう / れんせい)と号した。【ウィキペディアより】

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八丁の一里塚跡googleMAPへ

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案内板

八丁の一里塚跡
久下新田の一里塚から、ここまで1里ある。いま英泉描くところの「八丁堤の景」という浮世絵があって、当時の風景や風俗を偲ぶことができる。昭和六十年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会【案内板より】

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みかりや跡googleMAPへ

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案内板

みかりや跡
中山道を往来する旅人相手の茶店で「しがらぎごぼうに久下ゆべし」のことばがある通り「柚餅子(ユベシ)」が名物だったのだろう。
また忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので「御狩屋(ミヤリヤ)」と呼ばれたという。
昭和六十年十一月十七日
熊谷市教育委員会
熊谷市郷土文化会
戸森昭三(みかりや)
【案内板より】

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久下の渡し冠水橋跡碑googleMAPへ

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案内板

久下の渡し冠水橋跡
ここには江戸時代から久下の渡しがあり、昭和三十年には久下橋が架けられ、人々の交通の便がはかられてきた。
久下橋は冠水橋で細く長く、橋上では自動車がすれ違えないため、対岸の様子を見て渡るところから「思いやり橋」とも呼ばれた。
ムカデのような橋脚とともに親しまれてきた橋も、平成十五年 新しい橋の完成とともに、惜しまれつつ撤去された。
「久下の渡し」「冠水橋」の歴史と「思いやりの心」を後世に伝えるため1500余名の善意をもって、ここに記念碑を建立した。【きまぐれ旅写真館HPより】

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久下神社1googleMAPへ

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久下神社
『吾妻鏡』建久三年(1192)の条に「是武蔵国熊谷久下境相論事也」として、熊谷直実とその一族である久下直光が将軍源頼朝の前で境界争いをしたことが記されている。当地は、右の話に登場する久下直光の在所であり、自ら深く三島大神を崇敬していた久下直光は、その鎮守として地内に二つの三島社を創建した。これが当社の始まりであると伝えられている。
この二つの三島社のうち、荒川の近くにあったものは外三島、街道(中仙道)の近くにあったものは内三島と呼ばれていたが、当社の母体となったのはこのうちの内三島の方である。
江戸時代に新川河岸が開かれると、その付近に多くの人が住むようになり、明治の初めに新川村が誕生するが、外三島はその村社として祀られるようになった。
一方、内三島の方は中山道に沿って栄えていた旧来の久下村の鎮守であったことから久下村の村社となり、明治四十三年に地内の無格社一〇社を合祀している。【拝観録HPより】

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久下堤碑googleMAPへ

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久下堤碑
久下堤の碑 熊谷市久下(左岸堤防の裾、上流から)この付近の荒川左岸堤防は、元来は荒川の瀬替えのさいに旧荒川(元荒川)を締め切る堤防として築かれた。
江戸時代初頭から存在する堤防であり(当然、近代的な規模・構造に整備されてはいるが)、現在でも往時の呼称である久下の長土手(久下堤)と呼ばれることがある。長土手に沿って旧中山道が通っている。【きまぐれ旅写真館HPより】
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久下一里塚跡googleMAPへ

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久下一里塚跡
江戸の日本橋を起点とする中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久保長安らに命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方4間(9米四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり、憩いの場所にもなった。
柳樽には
くたびれた奴が見つける一里塚
という句もある。
昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 【おやじのつぶやきHPより】
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決潰の跡碑googleMAPへ

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決潰の跡碑
昭和22年9月のカスリーン台風による洪水のため、河口から71km付近久下地先のこの碑がある場所で濁流が堤防を越え決壊しました。
流れ出た洪水は埼玉県北部の村を次々と襲い、おりしも利根川の決壊による濁流と合流してはるか東京まで達し、付近一帯に甚大な被害を与えました。【荒川上流河川事務所HPより】
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権八延命地蔵googleMAPへ

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案内板

権八延命地蔵
権八は、姓を平井といい鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸へ逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し大金を奪い取った。
あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。
良心が咎め己の罪の深さに、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が犯した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾れは言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。
この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はその後捕えられ、延宝八年(延宝七年とも)に鈴ヶ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔の刑に処された。(案内板より)【案内板より】

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中山道 榎戸村 道標googleMAPへ

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中山道 間の宿 道標googleMAPへ

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吹上神社googleMAPへ

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案内板

吹上神社
□御縁起(歴史)
吹上は、北足立郡の最北端に位置し、その地名については、風で砂が吹き上げるところから生じたものとの説がある。古くからの集落は中山道に沿って続いており、江戸時代には中山道の熊谷・鴻巣の両宿場の立場が置かれ、更にその地内で中山道と日光脇往還が交わることから、交通の要衝として繁栄した。
『風土記稿』吹上村の項には「山王社 村内上分の鎮守とす、東曜寺持」「氷川社 小名遠所の鎮守なり、持宝院持」「稲荷社 下宿の鎮守なり、東曜寺持」と、鎮守が三社記されている。このように、江戸時代にあっては、村内を三分し、各々で鎮守を祀っていたが、最も規模が大きかったことから社格制定に際しては日枝社(神仏分離により山王社が改称)が村社となり、他の二社は無格社にとどまった。更に、政府の合祀政策によって明治四十年四月十六日付で、氷川社と稲荷社は日枝社に合祀され、これに伴い、日枝社は村名を採って吹上神社と改称した。年配の人が当社を「山王様」と呼ぶのはこうした経緯によるものである。
ちなみに、氷川社の跡地は本町二丁目の遠所橋のすぐ南に、稲荷社の跡地は鎌塚二丁目の新宿橋のたもとの所にあり、いずれも祠が建てられている。また、日枝社については、『明細帳』に「宝暦六年(一七五六)七月火災焼失す其後創立年月不詳」との記録が載る。【案内板より】

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明治天皇御駐輦址碑googleMAPへ

明治天皇御駐輦址碑
吹上は正規の宿場ではなく“間の宿”ではあったのですが、「お休み本陣」や、宿屋、料理茶屋といた「立場」の施設があり、中山道を往来した諸大名やお公家さん達に利用されました。明治天皇もその「お休み本陣」で休憩されたことがあるようで、宿場の中ほど右奥の家の中に徳富蘇峰の手による「明治天皇御駐輦址碑」が建てられています。【越智前社長のおちゃめ日記HPより】

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妙徳地蔵googleMAPへ

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昭和21年8月吹上町本町の住人中山幾太郎の長女光子突如眼病に苦しむ。近郷の名医に治療を受くるも効なし。失明の宣告あり。親子共々悲観の涙に暮れる。或る日知人の金子留五郎氏の導きによりて日蓮宗身延会行田支部主管渡辺妙祥法尼を尋ね仏祖三宝に願を掛け祈祷法座す神仏の実在を認め三、七、二十一間唱題妙行の請願を立つ満願聖日爾後光子さんの眼病全快す。
法座に依ると
今を去る130年前(天保14年)武士の娘本名山下喜美代(母よね)と申し、7歳にして母に死別後妻に養育さる何不自由なく暮らすも17歳にして不幸にも眼病に掛かる我が身の所作にも事欠く母もだんだん冷たく当たり悲しき日々が続く。家庭の持仏観世音菩薩に一心に祈願す。ある夜亡き母が夢枕に現われ八十八社参りを教う。不思議や薄すらとあたり見ゆ。意を決して明朝父の許可を得、観世音像を背負い六十六部と姿を替え旅立つ流浪4か年有り難くも日増に良く満願の日全快す喜び家路に急ぐも途中あまたの盗賊に襲われ殺害される。無念の余り蛇体となり有無両縁を問はずこの土地周辺に居住する者総てに悪霊になり怨恨をなす。
長年の苦界にあるを語る今宿福甚幸にして十界成仏の法華経の全座に合ふ。これを期に得道成仏を誓ふ妙徳地蔵尊として祭り、後世に伝える事を約す報恩の為開運子育安産眼病の守護を誓ふ者なり
地蔵尊とは釈迦滅後の無仏世界の衆生を救ふ任務を帯びて毎朝禅定に入り衆生の機根を観じ、あらゆる神秘的な力を以ってこれを救ふ慈悲深い菩薩その動かない事は大地のようで深いことは秘蔵のやうである所から地蔵と言ふ。【案内板より】
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中山道 道標googleMAPへ

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中山道 前砂村 道標googleMAPへ

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中山道 箕田追分 道標googleMAPへ

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箕田氷川八幡神社googleMAPへ

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□御縁起(歴史)
氷川八幡神社は、明治六年、当時箕田郷内に祀られていた氷川社、八幡社など二十余社のお社を併合して、箕田郷の郷社として八幡社のあった現在地に祀られたものである。
氷川社は、承平八年(西暦九三八年)清和天皇の孫である源経基が武蔵の国の国介になってこの地に赴任して統治した際、大宮の氷川神社から勧請(分けて祀ること)したと伝えられており、中宿地内に祀られていた。
八幡社は、源経基の臣下であった源仕が経基と相談して、天慶四年(西暦九四一年)現在地に京都の石清水八幡宮から勧請したもので、仕の孫の渡部綱によって神田(八幡田の地名あり)が寄進され再興されたものである。
仕は、嵯峨天皇のひ孫にあたり、平将門の乱や藤原住友の乱の平定に武功をあげ、武蔵の国の国守に任ぜられてこの地に住んだものであり、綱は、丹波の大江山に住む鬼を退治した逸話で有名な武将である。
ともに武勇に優れ、戦いの折はこの八幡社に祈願して武勲をたてたので、八幡社は後世、戦いの神様として近隣の崇敬を集めた。【案内板より】
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箕田碑googleMAPへ

箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。
源経基つねもと(六孫王ろくそんのう清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕つこう(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕つこう・宛あつる・綱つな)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり指月の撰文、維碩の筆による碑文がある。裏の碑便は約二〇年後、安永七年(一七七八)に刻まれた和文体の碑文である。

初めに渡辺綱の辞世
世を経ても わけこし草のゆかりあらば
あとをたづねよ むさしののはら

を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源の経基・源仕・渡辺綱らの文武の誉れをしのんでいる。
鳥酔の門人が加舎白雄かやしらお(志良雄坊しらおぼう)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷とうげんあんぶんきょうである。たまたま白雄が文郷を尋ねて滞在した折に刻んだものと思われる。【案内板より】

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箕田観音堂googleMAPへ

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当箕田観世音は、今を去る一千有余年前、平安時代中期の武将渡辺綱公を開祖とする由緒ある馬頭観世音である。この馬頭観世音は六孫王(清和天皇第六皇子の子)と言われた源経基公が、戦いの折に兜に頂いて出陣した一寸八分(約33㎜)の尊像である。承平の頃、経基公が大間の箕田城に在城の折、ある夜不思議な霊夢をみて、箕田の源仕公(渡辺綱の祖父)に譲り下された。箕田の仕公は、周囲の征夷を行った功績により武蔵守に任ぜられたが、これは他ならぬ観世音の「畏怖軍陣中 念被観音力 衆怨悉退散」のご加護のたまものである。それより、源仕公から源充公へ、源充公から渡辺公にと相伝えられ渡辺綱公がこの地に安置されたものである。時、正に永延元年(987)のことであった。それゆえに当観世音を「渡辺綱守本尊」と称し奉った。また、当観世音は別当真言宗吹張山平等寺でもある。この寺は宇治の「平等院」をここに移し「吹張山圓通寺殿」の別所と称したものである。当観音堂舎は、従来は大堂であったが明治五年二月に日の火災により焼失し、同年直ちに同地内の別当平等寺を引き直し本堂として修復工事を行ったものである。また従来より言い伝えられていた一寸八分の尊像もこのたびの本堂解体工事の際に無事見出され、百数十年ぶりにその御姿を現しになった。更に当観世音は忍領三十三観音霊場の七番観音にあたり、元禄の頃より巡礼者も多く賑わったと言い伝えられている。数百有余年の風雪に耐えた本堂も老巧化が進み、この度「開山一千年の記念事業」として、信徒の総意に基づきここに本堂の改築を行ったものである。この大事業が無事完成を見たのも、観世音菩薩の広大無辺なるご加護と共に、信徒各位の一層のご多幸、御繁栄を至心に祈願して、これを永代に残すものである【案内板より】
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鴻神社googleMAPへ

鴻巣宿の中心にあった氷川社、熊野社、雷電社を明治6年(1873年)に合祀し鴻三社と号したのが始まりである。その後、明治35年(1902年)に、日枝社、東照宮、大花稲荷社、八幡社を合祀して、社号を現在の鴻神社と改めた。当初は市内宮地5丁目にあったが、後に現在地に移転した。なお、旧社地には現在も八幡、稲荷、氷川の三社の祠が残されている。
大本となった三社のうち
氷川社は鴻ノ宮氷川大明神または端ノ宮(はじのみや)と言い鴻巣郷総鎮守として広く崇敬を集めた古社である。また「こうのとり伝説」の由来となっている社でもある。
熊野社は古くは熊野権現と号した古社だが創建は不明である。近隣の豪族の深井対馬守景吉が永禄4年(1561年)に紀州熊野社を参詣して、その社地の霊土と御神燈を持ち帰り、鴻巣宿の熊野社の社殿の下に霊土を埋めたと伝えられている。
雷電社は現在の鴻神社の場所にあり、竹林が多い事から「竹の森雷電社」とも呼ばれた。
コウノトリ伝説
昔、「樹の神」と言われる大樹があり、人々は「樹の神」の難を逃れるためにお供え物をして祭っていた。これを怠ると必ず祟りが起こり人々は恐れ慄いていた。ある時、一羽のコウノトリが飛来して、この木の枝に巣を作り卵を産み育て始めた。すると大蛇が現れて卵を飲み込もうとした。これに対しコウノトリは果敢に挑みこれを撃退させた。 それから後は「樹の神」が害を成す事は無くなったという。人々は木の傍に社を建て「鴻巣明神」と呼ぶようになり、土地の名も鴻巣と呼ぶようになったと伝えられている。【ウィキペディアより】
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お造り

食べログで「大宮 小料理」で探して良さそうだったので行きました。居酒屋と違って静かで、変な酔っ払いが来ないし、大将とか女将とか隣席の客と話せるのが楽しいです。高崎、熊谷で味をしめたので、これからもこういった店を探し抵抗と思います。少しコストがかかりますがそれ以上の体験ができてコスパはいいと思います。
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中山道 鴻巣宿 道標googleMAPへ

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鴻巣宿は、中山道六十九次の日本橋から数えて7番目の宿場町で、桶川宿(埼玉県桶川市)と熊谷宿(埼玉県熊谷市)の間に位置します(※鴻巣宿と熊谷宿の間には、間の宿であり日光裏街道との交差点でもある吹上宿も存在)。
明確な理由は不明ながら、1602(慶長7)年に本宿(埼玉県北本市)から移転されて設置されたもので、1834(天保14)年には2274人、戸数556(うち本陣1軒、脇本陣2軒)の規模であったと云われています。往時を偲ばせる建物はあまりありません。
ちなみに1601(慶長6)年頃には徳川家康が鷹狩時の休憩施設を名目とした鴻巣御殿を建てさせ、徳川秀忠、徳川家光の3代が使用しました。跡地には東照宮が建てられましたが、現在は実にささやかな状態です。
また、江戸時代に開発が進み、鴻巣宿の加宿となった上谷新田(現:鴻巣市人形)では江戸時代中期から雛人形の製作が盛んになり、特に明治になると益々盛んになり、現在に至るまで鴻巣を代表する産業となっています。【日本の旅HPより】
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東間浅間神社googleMAPへ

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案内板

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東間の富士塚 案内板

当社御祭神木花開耶姫命は大山祇命の御女にして天孫瓊瓊杵命の妃として皇室の始祖大御母と仰ぎ奉る大神なり 今日日本の基礎を築き給ひし功徳は日本女性の範と敬仰し奉る
古来、山火鎮護・農蚕の守護神、又婚姻子授・安産の霊徳神なり、初山に詣でる赤子は額に神宝の朱印を戴き無病息災を祈願し出世を願ふに崇敬極めてあつし【「中山道」を歩くHPより】
東間の富士塚
地元で「センゲンサマ」と呼ばれているこの富士塚は、東西約37m、南北約27m、高さ約6mの規模で、頂には木造の社殿が建てられている。参道と東側の石段および社殿は直線上に配置され、これを延長した先は実際の富士山を正確に指向する。中腹には享保8年(1723)の銘が入った「石段供養塔」が建てられており、塚の築造時期は、少なくとも江戸時代中期にさかのぼると考えられる。 このため東間の富士塚は、江戸時代後期に隆盛した「富士講」以前の古い富士信仰による築造であり、近在においても類例が少なく大変貴重である。 毎年6月30日、7月1日には、この一年の間に生まれた赤ちゃんの成長を祈願する初山行事が行われている。 平成25年6月 北本市教育委員会【案内板より】
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本宿天神社googleMAPへ

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算額の案内板

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算額は和算家が解法を期して記して神社仏閣に奉納した絵馬や額のことである。これは難問が解けたことへの感謝や勉学向上の祈念、また和算における成果発表などのために掲げられた。
和算は江戸時代中期以降に関孝和(一六四三~一七〇八)らによって発展した日本独自の数学を意味し「算学」と呼ばれ、明治時代中期頃になってもこれを学ぶ社中(塾)が各地にあった。
当天神者に所在する算額は、横一七八cm、縦八八cmという大型のもので、明治二十四年(一八九一)に奉納されている。組合された図形から答えを導き出す平面幾何学の問題である。
算額掲示の発起者は本宿在住の清水和三郎及び林専蔵であり、これに名を連ねる回答者は本宿八名、ほかに北中丸二名、桶川の小針領家一名となっている。当地における算学研究が盛んであったことを証明する貴重な資料である。【案内板より】
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中山道 桶川宿 道標googleMAPへ

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桶川宿は、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて6番目の宿場。所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡桶川郷桶川宿。現在の埼玉県桶川市にあたる。
そこそこの荷物を抱えて江戸・日本橋を出立した旅人がおよそ1日歩き通して日暮れどきを迎え、宿を求めるのがここ桶川あたりであったとされる。
「中山道もの」といわれた紅花等の染料や食用農作物の集散地となっていた天保14年(1843年)頃には347軒に達し、経済的にも文化的にも繁栄を見せている。
加賀前田家を始めとする参勤交代の大名の多くが、桶川宿の府川本陣を定宿としていた。 水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が足跡を残していることも知られている。また、文久元年11月13日(西暦1861年1月2日)には、皇女・和宮(親子内親王)が公武合体政策の一環で徳川将軍・家茂の御台所として降嫁すべく江戸へ下向の際、宿泊している。
「桶川」の地名の由来については諸説ある。最も有力なのは「沖側(オキガワ)」説で、「オキ」を「広々とした田畑」の意とし、その「方向(ガワ)」である「沖側(オキ-ガワ)」が転訛したとするもの。 他にも、湿地が多い土地柄で、東に芝川、南に鴨川の水源があることから、「川が起こる」意で「起き川(オキガワ)」とする説などがある。この地名「オケガワ」が初めて文献に現れるのは観応3年(1352年)、足利尊氏が家臣にあてた下文(くだし-ぶみ)であり、そこには「武藏国足立郡桶皮郷内菅谷村(むさし-の-くに あだち-ごおり おけがわ-の-ごう-ない すがや-むら)」とある。【ウィキペディアより】
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お茶博士・辻村みちよ 顕彰碑googleMAPへ

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案内板

辻村みちよは、三浦政太郎との共同研究で緑茶にビタミンCが多く含まれていることを発見する。この発見は北米向けの日本茶輸出拡大をもたらした。【ウィキペディアより】
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桶川宿本陣遺構googleMAPへ

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案内板

桶川宿府川家本陣は、埼玉県内の中山道筋では、唯一現存する本陣です。
本陣は、公家や大名、幕府の役人などが宿泊・休憩するため江戸時代に設置された宿です。一般の旅籠と違い、門と式台のある玄関の設置および畳が一段高くなった「上段の間」を持つことが格式として認められていました。
また、宿場の政治の中心的機能も担い、その補佐役として脇本陣が置かれていました。
本陣の宿泊は身分の高さによって勅使・院使・宮門跡・公家・大名・旗本などの優先順位があり、宿泊客が多い場合には脇本陣がかわりに使われました。
桶川宿に本陣が置かれたのは、寛永年間の上半期と伝えられています。本陣職は代々甚右衛門を襲名した府川家が勤め、問屋名主役として宿場の運営にもあたっていました。脇本陣は内田家と武笠家がそれぞれ勤めました。府川家は、本陣職のほかに問屋名主役(町村長)、代官補佐や寄場組合大総代(地域警察署長・簡易裁判官)を代々勤めました。桶川宿本陣は、江戸時代を通して町村自治の役所になっていました。
桶川宿本陣は宿内の大火による被害をたびたび受けてきましたが、絵図面などから、寛政12年(1800)当時の建物の広さは199坪、さらに天保14年(1843)には207坪に拡大されていることが分かっています。
現存する本陣は、かつての座敷構えの一部にあたり、「上段の間」・「入側」・「次の間」と、それに付帯する「御湯殿」・「御用所」からなります。「上段の間」は8畳で、正面の右に床・左に違い棚が設けられています。「入側」は上段の間をL字型に取り巻いた畳敷き13畳で、外側にはすべて障子引き違いで雨戸がもうけられています。「次の間」は14畳の一室になっています。「御湯殿」・「御用所」は、文久元年(1861)の和宮親子内親王(皇女和宮)下向のときに改築されました。
当本陣は、天保14年(1843)尾張・紀州・水戸の御三家の日光参拝や文久元年11月13日の皇女和宮の宿泊のほか、明治11年(1878)の明治天皇御巡幸の際の「行在所」となりました。
平成27年3月
桶川市教育委員会【案内板より】
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中山道桶川宿にある。もと旅籠の建物を,材木商が幕末より店舗に用いてきた。切妻造,桟瓦葺,平入の2階建で,正面に下屋庇を設ける。2階の軒は出桁造で,2階開口部は横一杯に繊細な格子を建て込む。街路に面して建ち,かつての宿場の面影を伝えている。【文化遺産オンラインHPより】
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嘉永7年(1854年)に中山道桶川宿に創業した茶商です。現在で6代目、165年の歴史がある商家です。登録有形文化財に登録されるのは、中山道に面した木造二階建ての店舗と、その奥に続く木造平屋建ての主屋です。店舗は大正15年(1926年)、主屋は嘉永7年に建てられました。
街道沿いの店舗は、大正15年に建てられた当時の姿をそのままとどめており、当時の商家の規範となる建物です。吟味された上質な木材が使用され、細部にわたり丁寧な造りをみることができます。当時の商家の繁栄をうかがわせるとともに、旧桶川宿の面影を伝えるたいへん貴重な建物です。【桶川市HPより】
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案内板

中山道の桶川宿にあり,街道に北面して建つ。基本は切妻造・平入であるが,明治末期の改造で正面左半分を突出させ,寄棟造の屋根を付ける。柱や差物が木太くしっかりしたつくりで,正面の入口大戸構や縦格子,庇など,宿場の面影を伝える旅籠建築である。【文化遺産オンラインHPより】
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須田家文書の特色の一つは、県内に珍しく紅花関係文書が多いことで、約400点ほどにもなります。紅花は、江戸末期から明治初年にかけて約100年近く上尾・桶川近在で栽培され江戸や京都へ出荷されていましたが、現在ではそれらの実状を知る資料が少なく、大変貴重な史料といえます。
須田家は南村(現在上尾市南)の名主須田治兵衛家からの分家です。【上尾市HPより】
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中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて5番目の宿場。
地名は戦国時代からある郷村名で、高台の田(上田)端の意であろうとされる。
当地は、鎌倉時代には源頼朝配下の武将・足立遠元、戦国時代には後北条氏配下の岩槻城主・太田氏の支配下にあった。 後北条時代、既に宿駅として成立していたが、近世・江戸時代以降の宿場は慶長8年(1603年)に指定されたものである。 複数の脇往還が交差する地点で、米の積み出しの拠点でもあった。 1591年(天正19年)に大宮宿が設置されるまでは浦和宿が隣の宿場であった。
安政6年(1860年)1月16日や、慶応4年(1868年)1月9日や、明治2年(1869年)2月23日と相次ぐ大火に見舞われ、このとき多くの歴史的建造物を焼失している。
比較的小さな宿場であったが、本陣の規模は信濃国・塩尻宿のものに次ぐ大きさを誇った。【ウィキペディアより】
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新聞記事

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手打そば一筋五十四年

お昼をここでざる蕎麦大盛を頂きました。燗酒できるか確認して注文したら、出てきたものが水かと思い飲んでみたら、やはり冷酒でした。老夫婦がけなげに営んでいたので文句も言えず、冷えた酒を飲みながらストーブで体を温めることにしました。店の前に合った新聞記事はかなり前のように思えます。

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