33km 2020年11月21日~22日
世間では新型コロナウィルス第3波の渦中の中、熊谷の小料理屋でお会いした造園業の社長さんと話が盛り上がって、旅の醍醐味を感じました。なので、2日目は少し2日酔いでスタートしましたが、上州のからっ風に煽られたせいか、すっかり酔いも醒めての散歩でした。
【下記の写真は、クリックで拡大できます。】
千曲錦長野駅10:03着。10:59発の新幹線はくたか558号まで1時間弱あるので、喫煙所があるのは有難い。そこで今回は、「千曲錦」を飲みました。少し甘ったかな。
【以下、千曲錦酒造㈱HPより】
私たちが普段食している「うるち米」に比べ大粒で芯白(米中心部のでんぷん質部分のこと)の大きい酒造好適米を酒造りには使用しています。千曲錦は主に長野県の酒造好適米である「美山錦」を使用し、玄米の質を見極め、それに見合った精米管理と精米をしています。
蔵の井戸は浅井戸(13m)2つと深井戸(60m)2つの計4つあります。この4つの井戸を鉄分の少ない適度にミネラルを含んだ水を得るために使い分けています。旅と酒を愛した放浪の俳人「種田山頭火」が昭和11年5月9日 佐久・岩村田において水を愛で「風かをる しなのの国の 水のよろしさ」と名水の句をしたためています。きき水の名人でもあった山頭火は自然が大好きでした。それなくしてはこの「自然の恵み」である名水も存在し得ないわけです。
幻のます寿し
昼食は長野駅構内で駅弁「幻のます寿し」を「幻の」というキャッチフレーズにまんまとのり購入、車内で頂きました。甘さ控えめで、鱒の味がしっかり感じられ美味しかったです。
【以下、寿し工房大辻HPより】
「幻のます寿し」は良質の「ます」を通常のますの寿しと比べ、約2倍の量を使用しています。すし飯の表面だけでなく、側面や裏側まで「ます」が入っています。裏までますの身が巻きついているのは、贅沢に2枚の切り身を笹の上に乗せて造っているからです。

明治天皇新町行在所googleMAPへ
明治天皇が明治11(1878)年、北陸・東海道各地の巡幸のおり、国立屑糸紡績所へ行幸されるとともに、9月2日新町に宿泊することになり、宿泊所として旧本陣が宿駅の西よりであることと、警備上問題があるとして、新築することに決まった。しかし、建設費788円に苦慮し、全町からの浄財と県からの借用金550円を合わせこれに当てた。
行在所を新築して天皇をお迎えしたのは大変珍しく、その後羈客所と称し、翌明治12年には英照皇太后伊香保行啓の時の宿泊所にもなっている。【高崎市HPより】

専福寺googleMAPへ
群馬県高崎市貝沢町に境内を構えている真言宗智山派の寺院です。専福寺の創建は江戸時代初期の万治3年(1660)に仙雅房賢宗が開山したと伝えられています。
江戸時代初期の寛文6年(1666)、火災により本堂が焼失し本尊も類焼しましたが、清水家が大旦那となり元禄7年(1694)に寄進しています。文化7年(1810)に小林一茶が新町宿で宿泊した際、専福寺世話人が灯籠建立の浄財を求めた事が「一茶七番日記」に記載されています。
境内には江戸時代後期の文政9年(1826)当地に生まれ、江戸和算の権威となり関流八傅の1人と称された田口文五郎の墓碑があります。又、推定樹齢300年の”くす”や”かや”、江戸時代の年号の銘がある庚申塔や馬頭観音、供養塔があり歴史の古さを感じます。
専福寺本堂は木造平屋建て、2重切妻造り、桟瓦葺、平入、桁行6間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。鐘楼は入母屋、桟瓦葺。宗派:真言宗智山派。本尊:不動明王。【群馬県:歴史・観光・見所HPより】

柳茶屋の芭蕉句碑googleMAPへ

見透灯籠googleMAPへ
江戸時代の末期、神流川が度々洪水を起こし、往還が流され瀬違いが出来て渡船場も変わり、白昼でも道筋が分からなくなり、多くの人が道に迷いました。そこで、灯籠を建て夜中の目印としていましたが、寛保年中(一七四一~四三)の大洪水で流失してしまいました。助郷の人々が夜中の通行に困ったため、文化五年(一八〇八)専福寺住職賢顕と宿役人が石灯籠を建てようと発願、旅人からも寄附を募り、常夜灯が石造りで再建されたのは同十二年のことです。【案内板より】

埼玉県googleMAPへ

勝場一里塚跡googleMAPへ
江戸日本橋より二十三里目。4km×23里=92km

畑時能首塚googleMAPへ
新田義貞の家臣で四天王随一といわれた。義貞の戦士後も南朝方と戦い、暦応二年(1339)越後国で」足利方に討たれる。重心の児玉五郎左衛門光信は、主君の首級を携え敵陣を突破し、ここに葬った。【ちゃんと歩ける中山道より】

金久保神社googleMAPへ

金鑚神社googleMAPへ
創立は欽明天皇の二年(五四一年)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が厚かった。 境内は、欅や銀杏などの老樹に囲まれ、本殿と拝殿とを幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。【埼玉県の神社HPより】

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫googleMAPへ

八幡大神社googleMAPへ
牧西村の鎮守、建久六年(1195)児玉党一族の牧西四朗広末が鎌倉八幡宮を勧進したもの。奉納される神楽「金鑚神楽宮崎組」は本庄市指定文化財。【ちゃんと歩ける中山道より】

宝珠寺googleMAPへ
開基開山年代は不詳。延命山地蔵院宝珠寺と称し初代鹿源は寛永十二年(一六三五)三月二十三日示寂している。慶安二年(一六四九)八月二十四日には徳川三代将軍家光より御朱印石高-0石を賜う。なお当寺は、文明九年(一四七七)五十子合戦により兵火に罹り古文書記録等は悉く焼失し、その後檀信徒の斡旋協力により再興を為し旧観に復したが寛政二年(一七九〇) 正月十日に至り村内より失火し本村五十余戸を類焼し、その際宝珠寺建物を焼失したと云う。現在の本堂は文政二年(一八一九)二月二十九日建立し、これが斡旋をしたのは宝珠寺住職二十六世盛照法印代に檀信徒の協力一致により再興し旧蹟を失わず荘厳昔日に復した。
また明治三十年(一八九七)一月二十六日には村内から失火し本堂に飛火したが全焼を免れた。これを機会に茅葺を瓦葺に改造した。…【案内板より】

滝岡橋googleMAPへ

百庚申googleMAPへ
百庚塔は、岡坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
百庚申が建立されたのは、幕末、万延元年庚申の年(1860)で、岡の有志13人により計画され、翌年の万延2年にかけて完成をみた。
このことは、庚申塔群の中に、大形の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれている文字によりうかがい知ることができる。これによれば、百庚申造立の中心人物は、「田島新兵衛、(以下12名略)」という人々であったことがわかる。
もともとこの場所には、享保元年(1716)に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていた。
万延元年は、徳川幕府の大老井伊直助が江戸城の桜田門外において水戸浪士たちにより、暗殺されるという大きな事件があったり、黒船来航により永い鎖国の夢をやぶられた日本の国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と、万延元年(庚申の年)がかさなり百庚申が造立されたと言えよう。【案内板より】

味千両googleMAPへ
旅の醍醐味「一期一会」ありました。
2日目

高島秋帆幽囚地入口標石googleMAPへ
江戸時代後期の砲術家。高島流砲術の創始者。
寛政10年(1798)、長崎に生まれる。父は四郎兵衛といい、家は代々長崎町取締役に任ぜられる。文化元年(1804)父の跡を継いで町年寄となる。 オランダ人から西洋砲術を学び、高島流砲術を編み出した。安政2年(1855)幕府講武所教授方頭取、文久2年(1862)同奉行支配となる。
天保13年(1842)中傷により獄に投ぜられ、弘化3年(1846)から嘉永6年(1853)まで岡部藩預けとなり、岡部陣屋内に8年間幽閉された【フカペディアより】

二十二夜塔googleMAPへ
旧暦22日の月待の記念として、二十二夜講中によって造立された塔である。二十二夜講のほとんどは女人講、念仏講である。如意輪観音を本尊とするが、准胝観音を本尊とする地方もある。「二十二夜」「二十二夜念仏供養」などと刻まれた文字塔と如意輪観音の刻像塔があり、群馬と埼玉を中心に、宮城、福島、新潟、山梨、長野、岐阜、愛知にも分布する。

瀧宮神社googleMAPへ
深谷の地が関東地方を経営する上で大切な処と悟った上杉氏は康正二年(一四五六)深谷城を築くと城の西南に位置する瀧宮神社を坤門(裏鬼門)の守護神として崇敬すると共に、 この湧水を城のお堀に引き込み用い、領国安寧の御神徳を歴代の城主は願い深く信仰し崇敬の誠を捧げてきました。
寛永十一年(一六三四)太平の世になると深谷城は廃されましたが、深谷は主要街道の一つ「中山道」の宿場町として栄え、当社は仲町・本町・西島の鎮守「瀧宮大明神(たきのみやだいみょうじん)」或いは「大神宮瀧宮(だいじんぐうたきのみや)」 として心の拠り所とされてきました。【瀧宮神社HPより】

清心寺googleMAPへ
浄土宗寺院。石流山八幡院と号します。萬誉玄仙(慶長10年1605年寂)が開山、上杉氏の老臣岡谷加賀守清英(法名皎月院円誉清心居士、天正12年1584年寂)が開基となり、天文18年(1549)に創建したといいます。当寺には、源平一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄が、平忠度を弔ったという供養塚があります。【猫の足あとHPより】

旧深谷宿常夜灯googleMAPへ
深谷宿は、江戸から数えて9番目の宿場。本陣1、脇本陣4、旅籠80軒余という中山道の中でも最大規模の宿場で、飯盛女も多く、遊郭もあり、これを目当ての客も多かった。
英泉が描いた「岐祖(きそ)街道 深谷之驛」にも多くのなまめかしい女性が描かれている。【中山道道中記HPより】

滝澤酒造googleMAPへ
銘酒「菊泉」は、気温が低く空気が乾燥する深谷の冬。さけ武蔵を中心とした原料米と荒川水系の伏流水という地元の恵み。地域の風土を活かし、手造りの伝統製法によって生まれるすっきりとした淡麗な地酒。目指す酒質は、名脇役。料理を主役に、料理の邪魔をせず、料理を引き立てる。それでいて、飲んだ後に、ふと印象に残る。
“菊のように香り高く 泉のように清らかな 伝承の酒”
私たちは、綺麗で上品なお酒をつくります。【滝澤酒造HPより】

七ツ梅googleMAPへ
株式会社田中藤左衛門商店が醸造していた清酒の銘柄であったが、平成16年(2004)に田中藤左衛門商店が廃業した後は、深谷市の中山道沿いにある酒造跡の通称として使われている。「七ツ梅酒造跡」ともいわれる。現在、酒造跡地は一般社団法人まち遺し深谷によって運営・管理されている。
銘酒”七ツ梅”は、江戸時代に「酒は剣菱、男山、七ツ梅」といわれた三大銘柄の1つ。幕府大奥の御膳酒として愛飲された。【フカペディアより】

煉瓦卯建の塚本商店googleMAPへ
大正元(1912)年築の大きなうだつが特徴の塚本商店。
渋沢栄一らによって日本煉瓦製造が設立され同工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(後に大里郡大寄村上敷免を経て、現在の深谷市上敷免)に建設された。【ウィキペディアより】
googleMAPへ [/caption] 渋沢栄一
【独り言】よくまあ勤王から幕臣へ、そして明治新政府の官僚へと身軽に心変わりできるものか。算盤勘定に長けていたんだ。ウィキペディアが真実なら尊敬していた渋沢に対してかなりがっかりしました。
【ウィキペディアから抜粋】天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の豪農「渋沢家」の長男として生まれ、幼い頃から商業的な才覚が求めら、14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想に繋がったといわれる。
一方で7歳の時には四書五経や「日本外史」を学ぶ。
また、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結び、尊皇攘夷の思想に目覚めるも、京都に出て志士活動に行き詰まり、一橋慶喜に仕え幕臣となりフランスへ渡航。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受ける。
大政奉還後、フランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの拝借金返済のために、明治2年(1869年)1月に静岡で商法会所を設立した。ところが大隈重信に説得され、10月には大蔵省に入省し退官後間もなく官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。・・・

みかえりの松googleMAPへ
深谷宿では「飯盛り女」と呼ばれる遊女が置かれ、宿場のはずれにあるこの松のから宿場の方を振り返り、前の晩の遊女との別れを惜しんだ旅人も多かったことから、「見返りの松」と呼ばれたようです。【古今東西舎HPより】

深谷並木googleMAPへ
江戸末期に400本の松や杉の並木があったという。
徳川家康が江戸幕府を開いた翌年の慶長9年(1604)に、東海道をはじめとする諸国の街道の両側に松や杉を植えたというのがそれです。
並木は、暑い夏には旅人に緑陰を与え、冬は吹き付ける風や雪から旅人を守ります。また風雨や日差しから道そのものを守る役割もありました。【関東地方整備局HPより】

熊野大神社鳥居googleMAPへ
社記にー延長五年(927)この地に枇杷の木を棟木にして小社を建て、上野国碓井郡熊野本宮より奉遷し東方と号すーとあります。
天文年間(1532-55)、深谷上杉家の家臣岡谷加賀守は当社を篤く崇敬し社領を寄進し、今でも、熊野免という年貢を免除した土地があります。
上野台の領主、秋元但馬守は当社を城の鎮守として崇敬し、天正年間(1573-92)に社殿改修を行ないました。
本殿は、深谷市の指定文化財に指定されいます。【み熊野ねっとHPより】

明治天皇御小休所跡碑googleMAPへ

地蔵尊googleMAPへ

東京まで70kmgoogleMAPへ

忍領石標googleMAPへ

一里塚googleMAPへ

旧中山道跡碑西口googleMAPへ

旧中山道跡碑東口googleMAPへ

札の辻跡googleMAPへ

高城神社googleMAPへ
創建は奈良時代以前と伝えられており、『延喜式神名帳』に「大里郡一座髙城神社」と記載されていることからもそのことがうかがわれる。
天正十八年(1590)豊臣秀吉による小田原の北条征伐において、忍城(現・行田市)が攻められた際、髙城神社も災禍に遭い社殿を焼失した。その後の寛文十一年(1671)に再建されるのだが、それは忍城主であった阿部豊後守忠秋が「髙城神社は式内社」であることから社殿再興を図ったことがきっかけであった。この時に再建された本殿と拝殿は、今も当時の面影そのままに残されている。(なお本殿・拝殿・手水舎以外の建物は昭和二十年八月十四日の熊谷大空襲によって焼失)【高城神社HPより】