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中山道30 安中宿⇒板鼻宿⇒高崎宿⇒倉賀野宿⇒新町宿 32.8km


32.8km 2020年10月31日~11月1日
1日目磯部~群馬八幡までの13kmを予定してましたが、高崎が次なので思い切って5.8km足を延ばしてしまいました。
宿に着くまでに日が暮れてしまい、歴史の足跡を探す目的を失い、ひたすら歩いていた自分に気づき、大いに反省です。
これからも、のんびりキョロキョロしながら歩くことを誓いました。

☟「一日目:磯部駅から高崎宿」のタイムラプス動画です。ご注意!8.4Mのデータです。
☟「二日目:高崎宿から新町宿」のタイムラプス動画です。ご注意!6.6Mのデータです。

【下記の写真は、クリックで拡大できます。】

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日本酒 水尾googleMAPへ

北陸新幹線「はくたか」を待っている間、ホームの喫煙所にて、昼間から「日本酒 水尾」を頂きました。
信州は奥信濃、冬は豪雪地域の飯山市にある田中屋酒造。そこからさらに奥、野沢水尾山湧き水を仕込み水に使用した、水尾の純米酒です。シンプルな辛口の酒を目指した一味ですが、近年はお米の良さ(地元飯山産ひとごこち100%)も手伝って、ふくよかで旨みのある味わい。ふわっと香る水尾の特徴であるバナナ系の香りもほのかに含みます。新酒は火入れ一回のフレッシュ感があります。このお酒は夏越し、秋上がり。ふくよかで厚い味わいもより滑らかに。含むと果実味を感じますが、口中の中ほどから現れる辛みのベールが全体を包み込んで、喉奥へと消えていきます。余韻に残る辛さが食とマッチ。冷やかぬる燗がお勧めです。【善光寺屋HPより】
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八本木地蔵堂
本尊・地蔵菩薩像は、額は円頂(剃った坊主頭)で、体には袈裟と衣を着用し普通の僧侶の姿をしている。秘仏としてご開帳を百年ごとにする定めとなっており、霊験あらたかで日本三地蔵の一つであるといわれている。
様式は田舎造りで素朴ななかにも威厳と気品をそなえ、頭頂が扁平になっていることなどから造像された年代は室時代初期のものとみられる。
【案内板より】
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原市村戸長役場跡googleMAPへ

原市村戸長役場跡
原市村の戸長役場があった場所です。戸長役場とは、明治時代初期に戸長が戸籍事務などを行った役所のことをいい、現在の町村役場の前身にあたります。
屋根と壁に隙間があります。屋根との間に空間を設け、屋根が燃えても土蔵の主屋を守る構造になっています。【日本の街道を歩く旅HPより】
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安中原市の杉並木
国指定天然記念物 昭和八年四月一日指定
中山道の杉並木として 江戸時代初期から植え継がれてきたが、その後の様子は左記の通りである。
年代   安中分  原市分  合計
天保十五年 三八七 三四五  七三二
昭和七年 一一八  二〇三  三二一
昭和四二年 六七  一五五  ニ二二
昭和四三年 全て伐採 九四  九四
現在    〇    一四  一四
昭和六〇以降植樹 〇 五四  ミニ杉並木
今や枯死寸前の杉並木ではあるが、市民の関心と理解、行政の協力により、後世に伝えていかなければならない。
中仙道しのぶ 安中杉並木 (安中かるたより)
平成二五年三月 碓氷安中ロータリークラブ【案内板より】
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東邦亜鉛株式会社googleMAPへ

安中駅の目の前の山の斜面にある工場、圧巻です。
安中製錬所
亜鉛・鉛・銀の製錬を中心とする日本の非鉄金属メーカー。鉛は国内トップ、亜鉛、銀もトップクラスのシェアを持つ。国内製錬事業の他にも、オーストラリアでの鉱山開発を手がける資源事業、電子部品・材料事業、電炉メーカーから発生するダストや使用済み電池の処理等を行うリサイクル事業、機器部品事業なども手がける。東京証券取引所1部に上場しており、日経平均株価の構成銘柄となっている。
1969年、安中製錬所を認可を受けずに拡張していたことが通産省東京鉱山保安監督部の調査で発覚。鉱山保安法違反で前橋地検に書類送検される。
環境問題
同社は、安中製錬所から生じた鉱滓(スラグ)を、複数の建設会社に販売していたが、この中には、土壌汚染対策法で定められた環境基準の最大で約100倍の鉛や、数倍程度のヒ素が含まれていた。同社の内部調査によって、これらのスラグの一部が別の建設会社に転売され、群馬県内の住宅の庭や公園の駐車場など数十ヵ所で砂利として用いられていたことが明らかになった。同社は約70億円掛けて回収や撤去を実施するとしている。【ウィキペディアより】
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寒念仏橋供養塔
安中市指定史跡 昭和五二年一二月二二日指定
板鼻宿の念仏講中が寒念仏供者で得た報湖金を蓄積し、享保「七年(一七三ニ)に石橋を改修し、旅人の利便に供した。
その後年月を重ねて破損したので、享和二年(一八〇板鼻宿の木嶋七郎左衛門が亡父の遺志を継ぎ、堅固な石橋に改修し、その近くに供養記念塔を建て、後世に遺したものである。地元ではこの石橋を『かねつ橋』と呼んでいる。
この塔が建てられた直後に、中山道を旅した太田南畝、別名野山人がその著『土茂紀行』の中で、『板衆川の橋を渡れば板鼻の駅 むげに近し。駅舎をいで、麦畑の中を行けば石橋あり、新発石橋、木鳴七郎左衛門供私塔といえる石たてり。げに々たる石佛をつくらんよりは、橋たてし、功徳はまさりぬべし」とほめている。なお、この供養塔は国道十六号の拡幅工事のため板鼻堰用水路沿いにあったのをわずかに現在地に移動したものである。
安中市教育委員会【案内板より】
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天照皇大神宮・洪水祈念之碑・射水神googleMAPへ

天照皇大神宮・洪水祈念之碑・射水神
・天照皇大神宮
全国に存在する天照大明神を祀る社で、建立年月などは不明です。祭は十月十四日に行われています。
・洪水祈念之碑
明治四十三年(一九一〇)、大洪水のため藤塚町は壊滅状態に陥りました。家屋流失十八軒、半壊家屋五十数軒、浸水家屋十軒、溺死者二名、行方不明十名を数えました。疫病の発生を恐れ歩兵十五連隊が派遣され、近隣の人々の協力により復旧が為されました。皇族からの見舞金、国からの援助により復村したことを後世に伝えるため建立されました。
・射水神
大正九年(一九二〇)、赤岩下が地滑りをして確氷川を塞ぎ、人家や田畑に大きな被害を与えました。村民は堤防を造り、同十一年に村を守ることを願いこの碑が建てられました。【案内板より】
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湯沢のお地蔵様
宝暦三年(一七五三)に茶屋本陣の飯野家より建立され、風雨で損傷したため安政三年(一八五六)に再建されました。戦時中召集令状が発布されると、交付された者は必ず地蔵様をお参りし出征するのがこの地域のならわしで、その結果、地蔵様のご利益で全員が無事ご帰還されたそうです。現在も、地域有志により、八月二十四日に例祭として縁日が行われ、提燈・行燈が灯され、祭が継承されています。
中央の『如意輪観音』は、女性特有の病気平癒の願掛けと結び付いた女人講として造立。八月二十三日に香花を供えて祭られます。灯してまだ燃えきらない蝋燭を妊婦が貰い受け、お産の時に家で灯し安産を願うと、蝋燭が燃えきらないうちに無事出産するという伝えがあります。
右側の『二十二夜塔』は、月待信仰のもので八月二十二日に縁日が行われます。」【倉敷市立自然史博物館HPより】
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上豊岡の茶屋本陣
中山道の高崎宿と板鼻宿との間に設けられ、大名の参勤交代や上級武士・公卿の喫茶や昼食等のために用いられた休憩施設です。宝暦7(1757)年には日光例弊使であった五條宰相菅原為成が、また文久元(1861)年には皇女和宮御下向の際に公卿などが客人として立ち寄ったことがわかっています。
茶屋本陣の建物は、既にあった居住用の主屋(18世紀中頃築造)と接続する離れ座敷として19世紀の初めに増築されています。大名などが休息をとる「お座敷(オザシキ)」は8畳2室からなっており、北側の部屋は「上段の間(ジョウダンノマ)」、南側の部屋は「次の間(ツギノマ)」と呼ばれ、上段の間には違棚、床の間、書院が設けられています。【高岡市HPより】
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長松寺
当寺は、戦国時代の永正四年(1507年)に臨済の僧嶽應元海が金井の地(現在の同市末広町の北部)に創立したものである。しかし、後年時移ると共に衰微して無住の寺になっていました。寛永元年(1624年)になり興禅寺(同市下横町)六世虎谷春喜(しゅんき)師が現在の地に移転し中興し、臨済宗より曹洞宗に改宗しました。故に、同師を以って開山とする。また、文明年間(1469-1486)の開創説があります。
 然るに、江戸時代中期の享保十一年(1726年)に火災にかかり堂宇悉く焼け落ちてしまいました。現在の本堂は上棟の棟札より寛政元年(1789年)に再建されたものと伝えられている。
 また、本堂には昭和六十年(1985年)二月十四日に「長松寺 天井絵と涅槃画像」として市指定重要文化財に指定されている二点の天井絵と掛軸があります。いずれの絵も狩野派の絵師で位階は最上の法眼であり、群馬県甘楽郡野上村(現 富岡市)の出身の狩野探雲(:上野探雲)の作である。探雲は狩野派の主流の探林の門人として修学し、幕府画所に十五人扶持をうけ江戸城西の丸普請のさいの絵作に従う。後に七日市藩(現 富岡市)に御用絵師として勤仕、文化九年(1812年)五月八十八歳で没しました。制作の年齢は天井絵がそれぞれ六十五歳、六十七歳の円熟期であり、涅槃絵は晩年八十一歳のものである。「向拝天井絵(天女)」は本堂向拝の天井板に岩絵具・胡粉・金泥による彩色。(間口442×252cm)、「大間天井絵(龍)」は本堂天井板に墨絵。(間口538×445cm)、掛軸表装された「涅槃像大曼荼羅」は絹本に日本画絵具で彩色。(縦218×横195cm)こちらの涅槃絵は普段は傷みを避けるため保管されています。
 庫裡は、江戸時代中期の享保十五年(1730年)頃、髙﨑城本丸の改築に伴い不要となった城内建物の一部を当地に移築し手を加えいくらか拡げたものであります。その中の書院は、徳川家光との政争の末に非業の死を遂げたとも云われている駿河大納言徳川忠長が自刃した部屋と伝えられています。忠長は二代将軍秀忠とお江の次男であり、三代将軍家光の実弟で寛永十年(1633年)十二月六日に没し、享年二十八歳の若さでした。【高崎市HPより】
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1日目のゴール(当初から変更)高崎駅の北にあるルートイン高崎西口目指していた直前に、気になる文字が目に入ったので思わず入りました。ご主人に尋ねるとやはり鬼平犯科帳に出てくる名前が由来とのことでした。酔いが進むと御主人と女将さんと話が盛り上がり特に「刀の試し切りの歴史」を語る御主人の舌の滑らかなこと。楽しい時間を頂きました。外観に少し躊躇しましたが、下調べも無く直感で入って良かったと思いました。【個人的感想より】
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旧中山道「左側通行」道標
 道標表面に刻まれた「左側通行」は左側の道通行を示す標識であり、裏面の「昭和七年三月内務省」は建てた年月と管轄先です。ここ倉賀野町上正六付近には昭和時代になっても旧中山道の杉と松の並木が残っていましたが、並木はそのまま中央分離帯とし、交通量の増加に伴い並木南側に新しい道路が造られました。…【案内板より】
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安楽寺古墳
高崎市倉賀野町の安楽寺境内にある、7世紀末頃に造られた円墳です。
墳丘は現況で径約20メートル、高さ4メートルの規模があり、周囲には堀があった可能性が高いと思われます。
埋葬主体部は、石棺式石室という珍しい形態で、凝灰岩の切石が使用されています。近畿地方にみられる横口式石槨との関連がうかがえるもので、地域の有力者が埋葬されたと考えられます。
石室内の壁には7体の仏像が彫られており、これらは鎌倉時代の作と推定されます。
秘仏として12年に1度だけ開帳されます(直近の開帳は平成25年4月)。【高崎市HPより】
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高札場・上町問屋場跡
 江戸時代を通じてこの辺りには高札場・上町の問屋場・二軒の脇本陣などがあり、倉賀野宿の中心街をなしていました。
 高札場は、問屋役兼年寄の須賀長太郎家(須賀長)の前にあり、高さ3.6m、屋根付きの大きなもので、幕府の禁令や高崎藩のお触れなどの高札が十数枚掲げられていました。
 問屋場は、宿場の重要施設で、幕府が定める公用の人馬及び物資・書状などの継ぎ送りを主要な業務とする一種の役所でした。
 倉賀野には三ヶ所の問屋場があり、各月の上旬は中町、中旬は上町、下旬は下町の閣問屋場が十日間ずつ務めました。
 上町の問屋場は、ここ須賀長の前に設けられ、毎月中旬の十日間、毎日問屋一人、年寄一人、帳付一人、書役二人、馬差一人以下二十人ほどが勤務していました。【案内板より】
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倉賀野宿脇本陣跡
倉賀野宿は、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて12番目の宿場である。日光へ向かう日光例幣使街道が分岐している。かつては江戸時代、烏川を利用した舟運搬の河岸があった。長さ11町38間(約1.2km)で、上町、中町、下町があり、中町が中心地だった。 現在の群馬県高崎市倉賀野町にあたる。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2,032人であった。明治16年に鉄道が敷設されるまでは、東京や信越方面を結ぶ水運の川岸舟場として栄え、料理屋や遊郭などもあり、賑わった。【ウィキペディアより】
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日光例幣使道追分
日光例幣使街道とは、日光に改葬された徳川家康の神霊に幣帛(へいはく)を捧げる勅使が毎年京都から派遣された。例幣使と呼ばれた勅使の一行は旧暦4月1日に京都を出発し、中山道を通って上州倉賀野宿へ。倉賀野の東で中山道から別れて日光に向かった道が日光例幣使街道で、日光到着は4月15日だったという。
武家の世の中になって苦しい生活となっていた公家の人々は、この時とばかりに沿道の宿場で金品を強要したり歓待させたりしたようで、宿場からは煙たがられていたようだ。島崎藤村の『夜明け前』にも「道中で人足をゆすったり、いたるところの旅館で金を絞ったり、あらゆる方法で沿道の人民を苦しめるのも、京都から毎年きまりで下って来るその日光例幣使の一行であった」などと沿道の宿場の苦労が書かれている。「強請(ゆすり)」の語も例幣使に由来するとの説もある。【気ままに街道歩きHPより】
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川端家屋敷群
19棟もの建物が国指定文化財に登録されている。旧中山道の街村集落である立石新田の豪農で,かつては一町屋敷とも呼ばれた。南北棟の主屋は屋敷南側に建ち,骨格は江戸後期の民家で,街道側の土間側を2階建に改造したのは明治前期頃と思われる。この地域の民家の変遷の一面をよくあらわしている。【文化遺産オンラインHPより】
shinmatishuku kobayashihonzinato

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新町宿 小林本陣跡
新町宿が宿場として最も栄えたのは、文化・文政期から天保期(1804~44)にかけての頃です。小林本陣は久保本陣・三俣副本陣と共に参勤交代の定宿でした。諸藩が届けた印鑑綴りには、金沢藩や甲府藩などの印影が保存されています。
 延享2年(1745)の「落合図」が保存され、当時の田畑や道筋が各々色分けされて記されています。元禄4年(1691)の検地水帳には所有者と地割が詳しく記され、落合新町の様子を知ることが出来ます。【案内板より】

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