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中山道28 岩村田宿⇒小田井宿⇒追分宿⇒沓掛宿⇒軽井沢宿 19.7km


19.7km 2020年8月20日~21日
涼しさを求めて、突然休暇をとって軽井沢へ行こうと思い立って来ました。
1日目。纏わり着く様な暑さと違って、空気がカラッとしていて、気温も1~2°低いようでしたが、北東に向かって歩いていたので、始終太陽を背にして歩いていました。また地味に長い上り坂でしたので、体力の消耗は激しかったです。
2日目午前中の行程でもあり、軽井沢は快適です。ただ、中山道に冷たいようで案内板等が少なく、碓氷峠を控えて栄えた宿場町の面影もなく、ただ、英国聖公会宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが明治二十一年(1888)に、この地に別荘を構えたのを機に避暑地として脚光浴びたのは悲しい限りです。周辺には日本の支配階級の別荘もあることが悲しさを増しています。戦後日本の形が残っています。

☟タイムラプス動画です。
初日の岩村田宿~追分宿
2日目 追分宿~軽井沢宿

【下記の写真は、クリックで拡大できます。】

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佐久平駅前温度計googleMAPへ

佐久平駅前温度計 
多治見駅では、午前7時頃には、既に29°だったような・・・
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小田井宿 本陣跡(安川家住宅)googleMAPへ

小田井宿は、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十一番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡御代田町中心部にあたる。参勤交代などで大名が北国街道との分岐点でもあった追分宿で宿をとる際、小田井宿は姫君や側女たちの宿にあてられることが多く「姫の宿」とも呼ばれた。【ウィキペディアより】
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拝領人形googleMAPへ

案内板にあった「拝領人形」の写真です。
皇女和宮が降嫁した際に拝領したと伝えられる人形。肥立のよい白肉の童子が正座し唐笠をかぶり、笠の紐を右手に持つしぐさをみせる。造作も丁寧で愛らしい。【公益財団法人 八十二文化財団HPより】
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おはる地蔵googleMAPへ

安川ハルは、『小学校教員だったけれども、貧しい人々が肥料を買えないことを目にして研究を重ねて、ゴミと人糞から『安川式肥料燻炭炉』を発明した女性。難病にかかりながらも地域に貢献し平成3年、89歳で生涯を閉じた』とあります。【ジャパンジオグラフィック一般社団法人HPより】
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龍神伝説?googleMAPへ

龍神伝説? ガラスに龍が映りこんでいませんか?
『甲賀三郎龍伝説』とは
甲賀三郎は、浅間山のふもとで妻と二人でつつましく暮らしていた。ある日2人の兄の嫉妬から蓼科山にある深い穴へつき落とされてしまう。
奥深い地底を何日もさまよい歩いた甲賀三郎は闇の中に光る一筋の陽光を見つけ地上へと抜け出ることができた。
そこは真楽寺にある大沼の池であった。「龍が出た。怖いよ~」と叫ぶ声が聞こえます。暗い地底をさまよい歩いた三郎は水面に映った自分の姿を見ておどろいた。なんと龍の姿となっていたのである。
悲しくなった三郎は妻がいるであろう蓼科山へ向かった。
一方、三郎の妻も三郎をさがしもとめ、いく日もいく日も野山をかけめぐり、悲しみ、苦しみぬいたすえ、諏訪湖に身を沈めて龍になっていた。
龍になった三郎は、龍になった妻とようやく諏訪湖で巡り会うことができ、今でも諏訪湖の底で暮らしているということです。【御代田町HPより】
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ハッピードリンクショップgoogleMAPへ

この街道で結構見かける自販機です。
最初は何かいかがわしい精力剤でも売っているのかな?と思えるネーミングでしたが、
コンビニになかなか出会えない中、猛暑では助かってます。
この看板を見ると、ホント「ハッピー」になります。
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追分宿 高札場跡 土屋本陣跡googleMAPへ

追分宿(おいわけしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる。北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。また、民謡に多く見られる追分節の発祥の地である。旧脇本陣の油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星らに愛され、堀辰雄の小説『菜穂子』、『ふるさとびと』に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである。【ウィキペディアより】
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浅間神社googleMAPへ

浅間(あさま)神社
磐長姫神は大山祇神の娘で、木花開耶姫命の姉神にあたります。普通、「浅間神社」と書くと「せんげんじんじゃ」と読み、木花開耶姫命を御祭神とした富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本社としていますが、ここは「あさまじんじゃ」と読み、磐長姫神を御祭神としています。
「あさま」とは火山を示す古語とされ、富士山の神を祀る神社が浅間神社と呼ばれるのも同様の理由であり、阿蘇山の「あそ」も同系のことばであると言われています。現在、浅間山は富士山の周辺や富士山が見える関東一円を中心に点在していますが、山頂から富士山が見える山を「浅間山」と命名したためといわれています。ここ軽井沢の浅間山も他の多くの山々と同じく、古代から信仰の対象となってきました。(フリー百科事典『ウィキペディア』より)【 神社探訪HPより】
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遠近宮googleMAPへ

遠近宮(おちこちぐう)
この地域一帯を遠近の里と言い、浅間山をご神体とする浅間様が祭られていました。在原業平が「信濃なる浅間の岳に立つけぶり、をちこち人の見やはとがめぬ」と詠んだ歌にちなんで、「在原業平遠近宮」と名前が改められました。
祭神は岩長姫命で創立年代は不明です。
安産の神として信仰が厚く、戦前は北陸の人をはじめ多くの人々の参拝がありました。【借宿美昔語りの会 案内板より】
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沓掛宿 脇本陣 満寿屋清兵衛googleMAPへ

沓掛宿に唯一あった中山道の歴史
沓掛宿(くつかけしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて19番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢にあたる。
古代の長倉牧の跡とされ、1535年に追分諏訪神社に奉納された大般若経にある「長倉沓懸」が初出。「沓掛」の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来し、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に浅間三宿と呼ばれて栄えた。また、草津温泉に向かう分岐路もあった。甲府藩や小諸藩の領有を経て1716年以後は公儀御料となる。
1875年に借宿村との合併により長倉村、1889年に軽井沢村・峠町などと合併して東長倉村となるが、軽井沢が避暑地として著名となったために1923年の町制施行を機会に軽井沢町と改称した。この間の1910年に信越本線の沓掛駅が開業する。
しかし1951年の大火で町の殆どを焼失したため、往時の様子を伝えるものは殆ど残っていない。その後は1956年に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に地名も中軽井沢と改称、以後別荘地や避暑地として発展している。【ウィキペディアより】
沓掛の地名を残して欲しかった。
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旧雨宮邸googleMAPへ

雨宮敬次郎
甲州財閥の一人
1846年(弘化3年)、山梨郡牛奥村(甲州市)に生まれた。
14歳の時、商人を志して行商生活に入った。やがて、彼の足は江戸や開港後の横浜に向けられた。彼の商業には投機性が強く、後に「投機界の魔王」と呼ばれたが、このころの活動に根ざしていたと考えられる。
1876年(明治9年)から翌年にかけて欧米に遊び、帰国後、軽井沢で開墾事業を進め、50戸余りの一村落をつくった。これは後に雨宮新田とも雨宮村とも呼ばれた。
彼は鉄道の発達と製鉄事業の興起をしきりに力説、経営もそれらに重点が置かれた。1888年(明治21年)、甲武鉄道、1891年、川越鉄道の取締役となって、彼の経営は鉄道にのびていった。彼が社長となった日本鋳鉄会社も、東京に水道が敷設されるについて、鉄管を外国から輸入する代わりに、国内でそれを鋳造しようという考えから設立されたものであり、また、仙人鉄山の開発も、同じ構想に基づいたものであった。
1903年(明治36年)、中央線が甲府まで開通したが、その時、雨宮が、家の近くに鉄道を引っ張って来ることを約束したという話が伝えられている。一説には、勝沼周辺の住民が土地を買収されることや、煤煙による被害をおそれて反対したからだとも伝えられているが、塩山へ中央線が回ったのは、雨敬の政治力によるものだというのである。こうした話に象徴された彼の豪胆な性格と偉大さが、一つの伝説を生み出したのかもしれない。【山梨中央銀行HPより】

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