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中山道27 長久保宿⇒芦田宿⇒望月宿⇒八幡宿⇒塩名田宿⇒岩村田宿


24.2km 2020年8月1日~2日
長い梅雨が開けて、前回の躊躇いを忘れて空の青さに誘われて中山道を1泊2日で来てみました。
久しぶりなのか、またSDメモリをさし忘れて初日のタイムラプスはありません。
今回思ったのは、時を楽しむことの贅沢さをしみじみ思いました。
日頃の仕事で効率やら何とかで一日がいたずらに過ぎて行ってしまっていたのですが、中山道を歩いてみて、また、初めて老夫婦が営む宿に泊まってみて、時の流れの緩やかなこと、この贅沢さは楽しまなければもったいないと思わせて頂きました。
日本人のDNAのなせる業かもしれません。時が緩やかに流れることに身を任せる贅沢さは、このうえもない幸せと感じました。
還暦を迎え、死が迫っているからこそ、時を楽しむことに幸せを感じたいと思います。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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しなの鉄道 車内補充券

しなの鉄道 車内補充券
ローカル鉄道の魅力です。

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蕎麦 刀屋
池波正太郎も愛したと言われる蕎麦屋へ、バス1時間遅らせて行ってきました。
味噌煮込みうどんに慣れている腰の強さにっ匹敵するほどの田舎蕎麦でした。量も多く満足でした。洒落た細い十割蕎麦と違い、食べ応えありです。
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長久保宿 旧本陣 石合家住宅
石合家は長久保宿創設当時から、江戸時代を通じて本陣と問屋を勤め、四台目当主のもとには真田信繁(幸村)の娘が嫁いでいます。
当時の建物としては、大名や公家等の賓客が利用した「御殿」と呼ばれる座敷棟と幕末頃の構築と推定される表門が現存し、ともに町文化財に指定されています。
御殿には、上段の間・二ノ間・三之間・御小姓部屋・台子之間・入側(畳廊下)・十二畳之間が残り、腰高障子や欄間、書院造り等の格調高い内装は、本陣御殿の姿をよく伝えています。…【案内板】
matuobashi

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松尾橋・崩落
なんと無くなっているのではありませんか。
維持補修もままならないまま自然の猛威に晒されたのでしょう。
さてこの困難をどうやって克服しなのでしょうか?
タイムラプスに記録されていればよかったのに。
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笠取峠
この峠は風が強く、旅人の笠を吹き飛ばすところに由来している。
【ちゃんと歩ける中山道より】
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旧芦田宿 本陣 土屋家住宅
土屋家は代々芦田宿本陣を勤める家柄で中山道の開削の際は大きな尽力を尽くしたそうです。伝承によると初代土屋右京左衛門重郷は武田家の譜代家老衆である土屋昌続の遺児や一族ととも云われ、元々の金丸姓は右京左衛門家の分家筋が「金丸土屋旅館」として芦田宿の旅籠を生業としています。昌続は天正3年(1575)の長篠の戦いで討死している為、その遺児は、天正10年(1582)に武田家が滅ぶと帰農し茂田井村に土着したのかも知れません。慶長2年(1597)、右京左衛門重郷は芦田の浪人岩間忠助と共に「芦田宿立駅についての願文」を蓼科神社(立科町大字芦田字高井)に奉納、この事から中山道の開削計画は豊臣時代末期頃からあった事になり、徳川政権はそれを踏襲したとも言えます。慶長7年(1602)に正式に中山道が開削され宿場町が指定されると、土屋家は芦田宿の本陣及び問屋、岩間家は名主に就任しその後も宿場の役人を歴任しています。
【長野県:歴史・観光・見所HPより】
雪隠
起源は中国の「雪隠(せついん)」がなまって、「せっちん」になったという。
 我が国では「雪隠」は事実上死語であり、実際に用いられることは殆どない。にも拘わらず、殆ど全ての国語辞典に収載されているのである。「雪隠」は中国から渡来した言葉であるというが、一般に市販されている中国語辞典に「雪隠」は記載されていない。中国ではトイレの表現に「厠」乃至は「厠のつく用語」が最も多く、その他、洗手間、盥洗室、茅房など、希に、浄房、便池が使われているようであるが、雪隠は使われていないようである。
【古墳のある町並からHPより】
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望月宿 大森本陣跡(大森小児科医院)googleMAPへ

望月宿 大森本陣跡(大森小児科医院)
大森九左衛門が勤め名主問屋を兼ねた
【ちゃんと歩ける中山道より】
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井出野屋旅館
中山道では初めての1泊2日の行程で、泊まった旅館です。
日本の古き時間が流れていました。
現代の便利さに浸って、それらに縛られていたことを実感し、
隣室との壁もなく、襖で仕切られた空間に静けさを大事にする心配りに迫られますが、それは自分が選択する自由でもあり、何も無く頼るものも無く、ひたすら静けさの時を贅沢に感じられる宿です。

「犬神家の一族」(石坂浩二・坂口良子出演)、 「君を忘れない」(木村拓哉・水野真紀・反町隆史出演)の撮影に使用された旅館です。
【井出野屋旅館HPより】

yawatashuku honzinato

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八幡宿 本陣跡
八幡宿は、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十四番目の宿場である。
現在の長野県佐久市八幡。千曲川の西岸にあたり、対岸の塩名田宿との距離は1里もないが、川止めになったときの待機地として、また千曲川沿いの米の集散地として江戸時代初期の慶長年間に整備された宿場である。
【ウィキペディアより】
shionadashuku mikaidatejuukyogun

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塩名田宿 三階建て住居群
塩名田の「河原宿」には所どころに情緒豊かな三階建ての住居がある。通称「お滝通り」に立ちどまると気づく。昭和六年(一九三一)に中津橋が従来の木造橋から、鋼プラットトラス橋に架け替えられた。そのため、国道外ぜにょり高い場所を通過することになって純粋な三階建て住居とは別に、国道沿いの家では既存の二階建てに更に二階を増築し、四階建てとして国道に出入り可能にした住居もある。・・・【案内板より】
shionadashuku maruyamashinsaemon honzinato

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塩名田宿 丸山新左衛門 本陣跡
『中山道信濃26宿』によれば、天保15年(1844)の「明細書上帳」には、本陣新左衛門・善兵衛、脇本陣文左衛門・問屋新左衛門・文左衛門、名主彦兵衛とみえているという。この時点では、本陣が2軒、脇本陣が1軒、問屋が2軒あったことがわかる。新左衛門が本陣と問屋、文左衛門が脇本陣と問屋をかねていた。
この新左衛門家が丸山家で、同家は開宿当時は名主もかねていた。また、もう1軒の本陣善兵衛家は、延宝年代(1673~1680)から本陣を勤めるようになった。他方、問屋は新左衛門家とともに、当初は新左衛門家の筋向かいの彦市家が勤めていたが、享保6年(1721)より、新左衛門家の東隣の文左衛門家が勤めるようになった。つまり、新左衛門家と文左衛門家が隣同士で、半月交代で問屋を勤めていたことになる。こうしたことから、丸山家には貴重な関係資料が伝えられている。また、家も古い様式を残している。
【佐久市HPより】
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佐久甲州街道分去れgoogleMAPへ

佐久甲州街道分去れ
佐久甲州街道は、古来甲州往還と呼ばれ、甲州街道韮崎から若神子(須玉)を経て平沢峠を越え信濃に入り、八ヶ岳連山の裾野を千曲川沿いに中山道岩村田に、更に北上すれば北国街道小諸に至る道であった。中世以来東海道筋の人々の善光寺参りの道であり、富士講や伊勢講の旅人が行き交う高原の道、茶・塩など食料から材木を運ぶ物資輸送の大切な道であった。 また、戦国時代、武田信玄の信濃攻略の極めて重要な軍用道路の一つであった。
【信泉会HPより】
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下仁田街道分去れ
下仁田街道は中山道本庄宿から藤岡宿へ入り、甘楽の谷合いを経て信州へ通じる脇往還道は下仁田で2つに分かれて、1つは北西に向かい本宿へ至り、さらに和美峠道と内山峠越えに分かれました。中山峠の横川関所のような厳重な関所がなかったので、善光寺参りの女性などにもよく利用され、信州姫街道とも呼ばれるようになりました。
【群馬県測量設計業協会HPより】

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