12km 2020年6月20日
移動の自粛が全国的に解除されて、いよいよ中山道再開です。
再開初日が、中山道の難所「和田峠」。それも西からの方が勾配がきつく、前日の雨で下が濡れていた所もあり、足元に注意しながらの行程でした。
更にスタート地点やゴール地点までのルートは、コミュニティバスを乗り継ぎながらなので、日帰り行程としては難しく、昼にゴールし「生ビール」なんて悠長な事は言っていられなかったです。
【下記の写真は、クリックで拡大】

浪人塚googleMAPへ
史跡 浪人塚 (このうら五〇米先)
和田嶺砥澤合戦跡
元治元年(1864)十一月二十日水戸浪士の一行千余人勤王の志をとげようと和田峠を越えてきた、それを高島、松本両藩が防いだ激戦地あとで塚には討死した浪士を葬り櫻を植え基碑が建てられている。
下諏訪町教育委員会【案内板】

標高1100mgoogleMAPへ

中山道 和田峠西の入り口googleMAPへ
ここから、山道が続きます。

和田峠(古峠)googleMAPへ
中山道 建設以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般人の通行、物資を運搬する牛馬の往き来などで賑わいをみせた峠である。頂上に、遠く御嶽山の遥拝所がある。冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。
明治九年(1876)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆んど通る人はなくなり古峠の名を残すのみである。
文化庁
長野県 和田村【案内板】
ようやく「和田峠」達成です。

広原一里塚googleMAPへ
このあたりを広原といった。その名のとおり昔は笹と萱の生い茂る原であった。
冬の降雪期には山頂より吹きおろす吹雪で一面の雪の原と化して道も埋もれるとき、五間(九メートル)四方のこの塚は旅人の道しるべとなったであろう。
この塚は江戸より五二番目の一里塚に当たる。
文化庁 長野県 和田村【案内板】
冬の降雪期にここ通るのは、よっぽどのことが無ければ止めると想う。

殉職警察官近藤谷一郎巡査之碑googleMAPへ
近藤谷一郎巡査は、慶応三年一〇月二〇日、新潟県北蒲原郡において近藤谷右衛門の長男として生まれ、明治二二年二月四日長野県巡査を拝命し、同年三月九日に巡査教習所を卒業して、上田警察署丸子分署詰となった。
上田警察署丸子分署に勤務中の明治二二年八月二二日、窃盗犯人を下諏訪警察分署へ護送する途中、当地接待地籍において、やにわに逃走した犯人を捕らえようとして谷川で格闘中、犯人の投げた石を顔面に受けて倒れ、さらに、近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職した。享年二二歳。
犯人は頭部を負傷し、接待地籍の茶屋へ逃げ込んで来たが、茶屋の主人が近藤巡査に護送されていった犯人であることに気付き、通りかかった住民二人と取り押さえ、人力車に犯人を乗せて和田村巡査駐在所へ届け出て事件が判明した。近藤巡査の遺体は、翌八月二三日捜索隊によって谷川の中で発見された。
治安維持の崇高な使命にその尊い身命を捧げた若き近藤谷一郎巡査の霊を慰めるため、和田村では翌年から毎年八月二二日の命日に、村民をあげて慰霊祭を挙行し続け、殉職から四八年過ぎた昭和一二年、丸子警察署庁舎改築を機に、依田窪全町村長の発意により、この地に「殉職警察官近藤谷一郎君之碑」の慰霊碑が建立された。
慰霊祭は、例年八月二二日の命日に和田村民の手によってしめやかに開催されてきたが、昭和六三年の百回慰霊祭をもって和田村主催から和田村教育委員会の管理となり、その後、和田村更生保護婦人会の方々が命日前に慰霊碑周辺の清掃、供花等の供養を続けていただいている。
平成一四年八月 丸子警察署 和田村役場【案内板】
人々の記憶に残る人こそ称えられるべき偉人ですね。

ゴミ無し童地蔵googleMAPへ
遠くから観た時、一瞬おばあさんが座っているのかと思うぐらいリアル感がありましたが、寄って見ると何とお地蔵さんではありませんか。不法投棄防止の為とか、近くに行かなければ分かりませんが、でも見られているようでその目的が達成できているんですね。
マスクをしているのは、新型コロナウイルス感染拡大予防の為なんですね。流石。

三十三体観音googleMAPへ
かつて、この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた石像である。旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和四八年(一九七三)に¥の調査発掘により二九体が確認されここ旧道ぞいに安置された。千手観音一三体、如意輪観音四体、馬頭観音一〇体、不明二体で四体は未発見である。
峠の難所を往来する人馬の無事を祈ってまつったものであろうか。
文化庁 長野県 和田村【案内板】

和田峠東の入り口googleMAPへ
やっと超えて来ました。これで最終バスに乗れそうです。
これまでの準備が無かったら到底もっと時間がかかり、日帰りできそうではなかったです。

唐沢一里塚googleMAPへ
この塚は、江戸より五一番目の里塚である。
一里塚は、江戸日本橋を基点として一里(約四キロメートル)ごとに道の両側に五間(約九メートル)四方の塚を築き、多くはその上に榎や松を植えて旅人の目じるしとし、また、憩いの場所ともしたものである。
和田、下諏訪宿間に一里塚は六カ所あったが、これはその一つである。【案内板】