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中山道7 垂井宿⇒赤坂宿⇒美江寺宿

15.9km 2018年10月20日
初めて、「さわやかウォーキング」の人たちとスタート地点の垂井駅で遭遇しました。そうしたら昼食に途中下車した大垣駅でまたもほかの団体さんと遭遇。おかげで飲食店はどこも満員。迷惑千万でした。「さわやかウォーキング」ですか?と尋ねられました。私もそんな年配になったんですね。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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垂井追分道標
追分は中山道と美濃路の大切な分岐点でした。ここには宝永6年(1709)、垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てた「是より右東海道大垣みち左木曽街道たにぐみみち」と刻まれた自然石の道標があり、中山道250余の道標中7番目に古く、歴史的に非常に価値の高いものです。
垂井町観光ガイドHPより
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青野ヶ原(青墓)一里塚跡
美濃と言う言葉は、「青野ヶ原」「各務野」「大野」の三つの野原からなるので、「三野国」(みののくに)と呼ばれ、古代は天皇領が多く、敬語として「美濃」と変えられたようであります。
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昼飯町の由来
むかし、善光寺如来という仏像が、大阪の海から拾いあげられ、長野の善光寺へ納められることになりました。
その仏像をはこぶ人々が、青墓の近くまで来たときは五月の中 頃でした。近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花が咲き乱れすばらしい景色です。善光寺如来を運ぶ一行も、小さな池のそばで、ゆっくり休み、美しい景色にみとれました。一行はここで昼飯(ひるめし)をとりました。
それから、この付近を昼飯(ひるめし)と言うようになりましたが、その名が下品であると言うので、その後、飯の字を「いい。」と音読みにして「ひるいい」と呼ばれるようになりましたが、「いい」は言いにくいので、一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。
又ここの池は、一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」と言われ、記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。
(大垣市史 青墓篇より)大垣市立青墓小学校
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旧清水家住宅
赤坂宿のほぼ中央に位置する古い商家の建物です。
享保15年(1730)もしくは安永4年(1775)建造と伝えられる主屋は、軒高の低い切妻造り2階建ての建物です。坪庭北側には、明治13年(1880)建造の墨書が残る土蔵があります。
赤坂宿内に現存する建造物の中で最古級の町屋遺構であり、様式や技法の観点から文化財的な価値が高いものです。
大垣市HPより
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赤坂宿 本陣跡
赤坂宿は、中山道江戸から数えて56番目の宿場。旧杭瀬川の「赤坂港」や谷汲山の巡礼で賑わった宿です。 宿内は昔らしい街並みが見られ、将軍専用の休泊所であった「お茶屋屋敷跡(現在はボタン園として有名)」や「赤坂港跡」「旧清水家住宅」など整備された遺構も多く、往時を偲ぶことができます。
岐阜県十七宿美濃中山道散策ガイドHPより
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所郁太郎 銅像
美濃国赤坂の醸造家・矢橋亦一の子として生まれ、同国大野郡の医者所伊織の養子となった。万延元年(1860年)には大坂の適塾に入り、緒方洪庵に学んだ後、京にて医者として開業。近傍に長州藩邸があったことから、郁太郎の治療を請う長州藩士が多く、この頃から長州藩士と交わり、尊王思想の大義を説いている。
文久3年(1863年)には長州藩邸内の医院総督となり、八月十八日の政変では長州に下向している。
元治元年(1864年)、9月に刺客に襲われて瀕死の重傷を負った井上聞多(後の井上馨)の治療にあたり、井上の一命を救うのに成功している。この時、郁太郎は手術道具を持っていなかったが、たまたま数日前から屋敷に出入りしていた畳職人の畳針を借りて傷口の縫合を行い、これによって井上は一命を取り留めた。
翌年には遊撃隊参謀として高杉晋作を助けて転戦したが、陣中で腸チフスにかかり、吉敷村の陣営で没した。享年28。墓は山口県山口市吉敷上東に現存している。
ウィキペディアより
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赤坂港跡と常夜灯
豊富な水量を利用した船による運送は江戸時代において諸物資の輸送や伊勢参りの人々が船便を利用するなどしていました。明治年間に入ってから石炭産業の発達に伴い最盛期を迎え500隻を超える船でにぎわっていましたが、大正8年鉱山鉄道として美濃赤坂線の開通により急激に衰微し、トラック輸送の発達とともに船運は廃絶し、昭和28年杭瀬川上流改修工事の完成で流路がかわり、旧港跡付近は埋め立てられ、現在は史跡公園となっています。
大垣市HPより
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赤坂宿まつり
11月4日開催されます。皇女和宮にちなんだ行列が出るようです。
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呂久の渡し  呂久渡船場跡
天正時代織田信長 が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城 に居所を移した頃から美濃と京都の交通がひんぱんとなり赤坂ー呂久ー美江寺ー河渡ー加納の新路線が栄えた。これが江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道 となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。
慶長一五年(# 1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、一三を数え、中でも船年寄馬渕家には、船頭八人、助務七人か置かれていた。その頃の川巾は、平水で九〇メートル、中水で一二〇メートル、大水では一八〇メートルに及んだといわれている。
文久元年(# 1861)には、皇女和宮親子内親王 が中山道をご降嫁の折この呂久川を渡られ、そ
の折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺めこれに感懐を託されて「落ちて行く身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と詠まれた。
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揖斐川
岐阜県揖斐郡揖斐川町の冠山に源を発し、おおむね南流。途中一部木曽川、長良川と平行して流れ、河口附近の三重県桑名市で長良川と合流、そのまま伊勢湾に注ぐ。 元々は大垣市内を南北に流れる杭瀬川が揖斐川の本流だったが、 戦国時代の享禄3年(1530年)に発生した大洪水で揖斐川の流れが変わり今日に至っている。

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