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中山道6 柏原宿⇒今須宿⇒関ケ原宿⇒垂井宿

13.1km 2018年10月13日
JR柏原駅は改札が無く、切符を箱の中に入れるシステム。日本人は性善説だと思った光景でした。途中関ヶ原を通りましたがさすが古戦場の町、電柱にまで歴史クイズがありました。古戦場の跡はともかく天下分け目の舞台を歩いている実感がありませんでした。日本は平和です。
追伸、気持ち涼しかったので久しぶりに昼食は生中と熱燗で満足しました。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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柏原八幡宮(かいばらはちまんぐう)
創建は平安時代の万寿元年(1024年)。 祭神は誉田別命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、姫三柱之命。安土桃山時代再建の複合社殿(本殿と拝殿)が国の重要文化財に指定されている。また境内には江戸時代後期再建の三重塔がある。神社境内に塔があるのは全国で18例のみである。
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運動会のため休業
のどかな風景です。皆さんこうありたいですね。
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照手姫笠掛地蔵
中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地蔵である。
常陸国(茨城県)小栗城主小栗助重が毒酒のため落命の危機に逢いながらも餓鬼阿弥となり一命を取止める。これを悲しんだ愛妾照手姫は、夫助重を箱車に乗せ、狂女のようになり懸命に車を引張ってここ野瀬まで辿りついた。そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ地蔵は次のお告げをしたと聞く。
 立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ
勇気をえた照手姫は、喜んで熊野に行き療養の甲斐あって夫助重は全快したことから再びこの地に来たり、お礼にお寺を建て石地蔵を本尊として祀った。
人力ウォークHPより
「こんな奥さんに会ってみたい!!」
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寝物語の里碑
岐阜県と滋賀県の県境に見落とすくらいの小さな溝があります。かつてはその溝が美濃と近江の国境となっていました。そこには国境の標柱が建っており、寝物語伝説の場所となっています。その昔、京都から奥州へ落ち延びた源義経を追う静御前が旅の道中で長久寺の近江側の宿をとりました。隣の美濃側の宿には義経の家来の源造が泊まっており、それに気づいた静御前が「義経に会うために、奥州まで連れて行ってくれ」と源造に懇願した、というやり取りがあったそうです。両国の宿に泊まる旅人が、寝ながらこの話をしていたことから、この土地の人々が「寝物語の里」という名を付け、今もなお語り継がれているのです。
関ヶ原観光WebHPより
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今須宿問屋場(といやば)
中山道の今須中学校を越え西へ100mほど進むと、今須宿問屋場(現在は、山崎家)があります。交通の要所である今須宿にはもともと7軒の問屋場があったそうです。中山道美濃16宿のうちで、当時のまま現存し、その威容を今に伝えているのはこの1軒だけだそうです。縁起物の永楽通宝の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄振りがうかがえます。問屋場とは江戸時代、宿場を円滑に運営するために、宿役人が業務を行った場所です。ちなみに、宿役人のおもな業務は、幕府の公用旅行者のために人足・馬・宿泊所の手配や、幕府の書状(公用文書)を運ぶ飛脚の管理などでした。
関ヶ原観光WebHPより
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今須宿
江戸時代、宿駅で人馬の継ぎ立てなどの様々な事務を行った問屋場が7軒あったという「今須宿」。「関ケ原宿」に同じくして、この「今須宿」も地理的に交通の要所として、商人も多数行き交ったとされています。今須中町の西端には高さ1.5mほどの石灯籠「今須の永代常夜灯」があります。これは、かつて(江戸期・文化5年頃)は今須が宿場町として賑わっていたということを表しています。その昔、京都の問屋・河地屋が大名の荷物を運ぶ途中、この地で紛失してしまい「金毘羅」さんに願をかけ一心に祈ったことで荷物が出てきたのだそうです。喜んだ河地屋はその礼として建てたとされるのがこの常夜灯です。正面には「金毘羅大権現永代常夜灯」と刻まれ、大切に保存されています。
関ヶ原観光WebHPより
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JR貨物
踏切を渡ろうとしたら偶然にも遮断機が下りてきて、慌てて渡り切ってから撮った貨物列車です。
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常盤地蔵
源氏が平治の乱(1159年)に敗北した後,東国に逃れた源義経(牛若丸)を案じた母の常盤御前は「いずれ,義経はここを通って上洛するはずだから,そのときには道端から見守ってやりたい」と,この地にやってきました。しかし,土賊に襲われ,宿の主人に形見の品を託して43歳の生涯を終えます。それを哀れんだ宿の主人が手厚く葬り,後に村人たちがここに常磐地蔵を祀ったといいます。
中山道をあるくHPより
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常盤御前の墓
旧中山道から脇道に入ったところにある小さな公園の中に、宝篋印塔と五輪塔が並び建っています。これに記された内容にまつわる伝説は多数ありますが、その中のひとつに常盤御前の伝説があります。16歳で源義朝の愛妾となり、今若丸・乙若丸・牛若丸(源義経)の3児に恵まれました。義朝が平治の乱で敗れ、源氏がちりぢりになると、牛若丸が東国へ走ったと聞いた常盤御前は、乳母の千種とともに牛若丸の後を追いこの地にやってきました。ところが、ここで土賊に襲われ命を落としてしまいます。それを哀れんだ里人がここに葬り塚を築いたのだそうです。その後、母親を殺した土賊6人を、牛若丸が皆殺しにし、母の恨みを晴らしたという内容の絵巻物も残っています。
関ヶ原観光WebHPより
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大谷吉継陣跡
山中(やまなか)の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、ひっそりと碑が建っています。大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる1ヶ月も前に「若宮八幡宮」上の急斜面に陣を作り始めました。この陣は、空堀を左右に巡らせ、山中城と呼ばれるほどの要害の地でした。合戦後、徳川家康も大谷陣を一夜の宿として使用したという話もあります。戦術に長け、また官僚としても優秀であった吉継は、陣作りにも力を発揮しました。当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたという。
関ヶ原観光WebHPより
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電柱の武将
クイズ
関ヶ原合戦に参加した大名のうち東軍に参加していたのは誰か。
➀宇喜多秀家➁藤堂高虎➂平塚為広➃島津義弘
答えはこのページの下
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不破関(ふわのせき)
古代東山道の関所の一つで、現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった。「不破の道」と呼ばれたこの地の東山道に、壬申の乱の翌年(673年)に関所として設置された。
東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関(後には逢坂関)とともに三関と呼ばれ、壬申の乱の後からおよそ100年の間、治安維持のため畿内と東国との間の通行を厳重に監視した。三関から東は東国または関東と呼ばれた。
672年に発生した壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)の命により美濃国の多品治によって「不破の道」が閉鎖される。この近辺が激戦地となっている。
673年、天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を守る為に、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所が設置される。
701年(大宝元年)、大宝律令によって正式に定められる。
789年(延暦8年)、天皇・太上天皇の死や病などを契機として三関が廃止される。しかし非常時に関の封鎖を命じる「固関」(こげん)の儀式が江戸時代まで続いた。徳川幕府により東山道が中山道として整備されたころと推測される。その以前から関所の機能はなくなっていた。
ウィキペディアより
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西首塚
JR関ケ原駅前から国道21号線を西へ700mほど行ったところにあります。「東首塚」と同様、当時この地の領主であった竹中重門が徳川家康の命により、関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。現在は高さ2m、周囲30m程の塚ですが、JR東海道本線の敷設の際に埋葬されていた白骨が大量に出たところから、当時は相当な規模であったと思われます。「西首塚」は、別名胴塚とも呼ばれています。また、東は東軍関連、西は西軍関連の首塚とする説もあります。なお、塚の正面にある御堂は、地元の奉納により千手観音と馬頭観音が安置されています。
関ヶ原観光WebHPより
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中山道の松並木
野上集落の西端にある松並木。そこには樹齢300年余りの松の老木が街道の両側に残っています。松並木の途中に関ケ原宿の看板が立っており、関ケ原宿の道中に位置していたことを指しています。中山道を行く多くの旅人が木陰でしばしの休息をとる場所でした。また、大名行列もこの松並木に沿って進んだといわれています。中山道の中でも、松並木が残っている場所は非常に少なく、全国的にも珍しいそうです。桃配山麓の松並木のきわにある、地蔵堂のあたりは、かつての桃配山の登り口があったとされており、関ケ原合戦の際は家康がその道を通って着陣したとされています。
関ヶ原観光WebHPより
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垂井一里塚
岐阜県不破郡垂井町にある一里塚である。中山道沿いに設置され、日本橋から112里にある。南側の1基のみが現存している。中山道の一里塚で国の史跡に指定されている2件のうちの1つである(他の1件は志村一里塚)。一里塚の整備以前に行われた関ヶ原の戦いでは、この場所に浅野幸長が陣をかまえた。
ウィキペディアより
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南宮大社大鳥居
岐阜県西部、南宮山の山麓に鎮座する。「国府の南に位置する宮」として「南宮」を名乗るようになったとされる。鉱山を司どる神である金山彦命を祭神としており、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている。境内には江戸時代の遺構18棟が残っており、国の重要文化財に指定されている。
社伝では、崇神天皇の時代に創建されたとされる。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」と記載され名神大社に列している。また、美濃国一宮とされた。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで焼失し、1642年に徳川家光が再建した。
1868年、神仏分離により神宮寺が分離移転した(現 朝倉山真禅院)。
近代社格制度のもとで、1871年に「南宮神社」として国幣中社に列し、1925年に国幣大社に昇格した。戦後、「南宮大社」と改称した。
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昼食「いっしょう」
外観から、営業しているのかどうか不安でした。営業中の看板が出ていたけれど、暖簾は外に出てないし、扉からは明かりが見えないし…思い切って入ってみたら営業してました。お客も居ました。「みそカツ」定食を注文したら、あまり甘くない味噌だったので美味しかったです。
答え➂

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