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中山道5 鳥居本宿⇒番場宿⇒醒井宿⇒柏原宿

15.1km 2018年10月7日
今日は、鳥居本宿場まつりだったのに、台風襲来?により「中止」でがっかりでした。スタート時点では霧雨でしたが、徐々に晴れてきだして、帰る頃には秋晴れの晴天でした。皮肉なものですね。
それと、中山道は地味なのに、結構すれ違う人が多いのには意外でした。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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合羽所「木綿屋」googleMAPへ

合羽所「木綿屋」
鳥居本宿で合羽製造が始まったのは、享保5年(1720)馬場弥五郎の創業であると伝わります。若くして大坂に奉公にでた弥五郎は、当時、需要に追いついていない合羽製造の改革を決意し、奉公先の坂田屋の屋号を譲り受けて鳥居本宿で開業し、新しく菜種油を使用していた合羽製造に柿渋を用いることを奨励しましたので、一躍、鳥居本宿で雨具の名声はたかまりました。柿渋は、保温性と防水防湿性に富み、雨の多い木曽路に向かう旅人は、こぞって鳥居本宿場で雨具としての合羽を求めるようになりました。
 鳥居本合羽が赤いのは、柿渋を塗布するときに紅殻を入れたことによるとされます。赤い合羽はとくに上もので、主に北陸方面に販売されました。江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。
サンライズ出版HPより
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とりいもと宿場まつり 台風襲来につき「中止」googleMAPへ

台風襲来?
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湖東焼「自然斎」旧宅googleMAPへ

湖東焼「自然斎」旧宅
湖東焼は、文政12年(1829)に、彦根城下の商人絹屋半兵衛(きぬやはんべえ)が、仲間と共に始めたやきものです。天保13年(1842)、井伊家12代直亮(なおあき)の命により窯が彦根藩に召し上げられ、その後、13代直弼(なおすけ)、14代直憲(なおのり)の代に藩窯として運営されました。
 自然斎(じねんさい)(1821~1877)は、湖東焼の絵付師としてよく知られた人物です。中山道鳥居本宿(とりいもとしゅく)の自宅で旅館を営むかたわら、原村の床山や高宮村の赤水(せきすい)、白壁町の賢友(けんゆう)と株仲間を結成し、彦根藩の許可を得て藩窯から白素地(しろきじ)を仕入れ、絵付を行いました。文久2年(1862)に藩窯が廃止され、窯場や窯道具一式が、藩窯の職人であった山口喜平(やまぐちきへえ)らに払い下げられて再び民窯となった後は、この喜平の窯の素地などを用いて、明治時代以降も絵付を続けました。時代が変わり、宿場が衰退していく中、明治5年(1872)、高島郡西万木(にしゆるぎ)村(現・高島市安曇川町)へ移住し、明治10年(1877)に57歳で世を去りました。
彦根城博物館HPより
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台風に備えた茅葺屋根googleMAPへ

台風に備えた茅葺屋根
こんなふうに台風に備えているんですね。
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摺針峠望湖堂 石碑googleMAPへ

摺針峠望湖堂 石碑
この石碑を入り口に、距離800mの間隔を標高95mから178mまで一気に登りました。勾配5.923°(勾配(度)=tan-1(垂直距離/水平距離)×180/π)でした。
中山道は、鳥居本の宿場町から山道を登って江戸へ下っていきました。山道を曲がると急に視界が開け、この峠から眺める琵琶湖や湖東平野の眺めは最高だったといわれています。
摺針(すりはり)峠には、弘法大師にちなむ逸話が残されています。
「道はなほ学ぶることの難(かた)からむ斧を針とせし人もこそあれ」
その昔、また諸国を修行して歩いていた青年僧が、挫折しそうになって、この峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会います。聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨いて針にするといいます。そのとき、ハッと悟った青年僧は、自分の修行の未熟さを恥じ、修行に励み、後に、弘法大使になったと伝えられています。
その後、再びこの峠を訪れた大師は、摺針明神宮に栃餅を供え、杉の若木を植え、この一首を詠んだと伝えます。この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになりました。
その杉が摺針明神宮の社殿前にあり、太いしめ縄が張られています。現在、峠より一段高いところにありますが、以前、峠はこの杉のすぐ脇を通っていたといわれています。また、杉の真下に「望湖堂」とい名の峠の茶店が保存されていましたが、平成3年(1991年)に残念にも火災にあい焼失しました。
彦根観光協会HPより
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称名寺
湖北十ケ寺と称される湖北を代表する浄土真宗寺院のひとつ。浅井長政に与し、民衆と共に織田信長に対抗しました。その後は長浜城主の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に協力し、本能寺の変で明智光秀軍が長浜城を攻めたとき、住職の性慶は秀吉の母なかと妻のおねを岐阜へ連れて逃げています。こうしたことから、称名寺は秀吉に手厚く保護されました。
長浜・米原・奥びわ湖観光サイトHPより
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鎌刃城跡 案内板googleMAPへ

鎌刃城(かまはじょう)
湖北と湖南をつなぐ要衝として、北近江の京極氏・浅井氏と南近江の六角氏がその領有をめぐってたびたび争った城です。城主の堀氏は浅井長政に臣従しながらも織田信長に内応したことが露見したため、長政に攻められ落城しました。「姉川の合戦」後には織田家の領地となり、堀氏は城主に返り咲きましたが、すぐに廃城となりました。調査により主郭虎口に大規模な石垣と石段が見つかり、大きな城だったことが想像できます。
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番場宿本陣跡
東山道時代から続く番場宿は山間の小さな宿場であったが琵琶湖に米原湊が開設されると物資の往来が盛んになり、天保年間には問屋場が6ヵ所にも増えたという。しかし旅籠はわずか10軒だけという小さな宿場であった。
番場の忠太郎は、此処の生まれ。 長谷川伸(しん)の戯曲「瞼(まぶた)の母」の主人公。
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養鱒の風景
醒井養鱒場は、明治11年(1878年)に固有種ビワマスの養殖を目的に設立されました。
また、明治41年に全国にさきがけて鱒類の完全養殖に取り組み成功した日本最古の養鱒場
醒井養鱒場HPより
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醒ヶ井宿
古代からの交通の要衝であり、『日本書紀』の日本武尊伝説に登場する「居醒泉」(いさめがい)が醒井の地名の由来であるといわれる。豊富な湧き水があったことが、旅人の休憩場所として最適の条件であったことは間違いない。今も地蔵川の清らかな流れが町を潤している。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、醒井宿の宿内家数は138軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒で宿内人口は539人であった。
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醒ヶ井宿・地蔵川
居醒の清水などから湧き出る清水によってできた川で、大変珍しい水中花「梅花藻(バイカモ)」で有名です。水温は年間を通じて14℃前後と安定しており、貴重な淡水魚である「ハリヨ」も生息しています。また、「居醒の清水(いさめのしみず)」は、平成20年6月「平成の名水百選」(環境省)にも選ばれています。
梅花藻(バイカモ)はキンポウゲ科の淡水植物。梅の花に似た、白い小さい花を5月中旬~8月下旬まで咲かせます。梅花藻と呼ばれるこの水草は、水温14℃前後の清流にしか育たず、全国でも生育場所が限られています。
長浜・米原・奥びわ湖観光サイトHPより
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延命地蔵尊
創建は弘仁8年(817)、大旱魃があった際、伝教大師最澄が比叡山延暦寺の根本中堂で雨乞いの祈祷を行ったところ、霊夢に薬師如来が立ち、「醒井に霊泉が湧き出す地がある。」との御告げがありました。最澄がこの地を訪れると、地蔵尊の化身と思われる1人の老人に会い「この地に地蔵尊像を安置し祀れば念願成就するだろう。」と告げ姿を消しました。最澄は早速自ら地蔵尊座像を彫り込み安置すると、三日間雨が降り続き、多くの人達が救われたと伝えられています。当初は居醒の清水の中に安置されていましたが、慶長13年(1608)当時の大垣城(岐阜県大垣市)の城主石川家成が帰依し御堂を造営し改めて地蔵尊像を安置しています。醒井石造地蔵菩薩坐像は鎌倉時代後期に製作されたもので総高270cm、像高234cm、大型丸彫り地蔵尊像は全国的にも例が少なく滋賀県唯一として貴重なことから平成9年(1997)5月30日に米原市指定文化財に指定されています。
滋賀県観光・旅行見所ナビHPより
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横川の駅家(よかわのうまや)跡
古代律令国家は畿内から全国に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道と30里(約16km)ごとに駅屋を設けました。
近江の東山道には勢多(大津市)、篠原(野洲市)、清水(東近江市清水鼻)、鳥籠(とこ・彦根市鳥居本)と横川(米原市梓河内)に駅屋が置かれました。
米原市内にあった横川駅の位置は、醒ヶ井と梓河内の二説があり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や、横川の略称とされる「小川(こかわ)」などの地名があることから、古代東山道の横川の駅家跡に推定されています。
城郭探訪HPより
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柏原宿
柏原宿(かしわばらしゅく、かしわばらじゅく)は近江国坂田郡にあった中山道60番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は滋賀県米原市柏原。
『太平記』にすでに記載されている中世以来の宿場。艾(もぐさ)が特産品で、最盛時には10軒以上の艾屋があったという。

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