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中山道4 愛知川宿⇒高宮宿⇒鳥居本宿

14km 2018年9月23日
このエリアを歩いていたら、近江商人のことを思い浮かべたので、調べてみました。
高島屋(高島郡(現・高島市)出身の商人飯田儀兵衛の婿養子である飯田新七が創業)
白木屋(長浜出身の大村彦太郎が創業)
山形屋(近江商人の血を引く羽前庄内出身の源衛門が創業)
西武鉄道、西武グループ、セゾングループ (愛知郡(現・愛荘町)出身の堤康次郎が創業)
伊藤忠商事・丸紅(犬上郡出身の伊藤忠兵衛が創業)
住友財閥(初代総理事広瀬宰平は野洲郡出身、2代目伊庭貞剛は蒲生郡出身)
双日(母体となる 日商岩井、ニチメンとも、近江商人の流れを汲む。)
トーメン(彦根出身の児玉一造が中心となって創業)
兼松(前身の一つである江商は、犬上郡出身の北川与一が創業)
ヤンマー(伊香郡(現・長浜市高月町)出身の山岡孫吉が創業)
東洋紡(前身の一つである金巾製織は、滋賀県知事の勧奨から複数の近江商人が創業)
ワコール(五個荘町(現・東近江市)出身の塚本幸一が創業)
西川産業(八幡(現・近江八幡市)出身の西川仁右衛門が創業)
トヨタ自動車(彦根出身の豊田利三郎が初代社長。グループ創始者豊田佐吉は前述の児玉一造に多くの支援を受けた)
日本生命保険(彦根出身の弘世助三郎の呼びかけで創業)
ニチレイ(前身である帝国水産は、野洲郡(現・近江八幡市江頭町)出身の西川貞二郎らが創業)
ウィキペディア「近江商人」より

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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日吉山 千樹禅寺googleMAPへ

千樹寺は一般に観音堂と呼ばれています。この寺も唯念寺と同じく行基が創建したもので四十九院の一つでした。やはり戦国になると織田信長の兵火にあいこの寺も焼失しました。しかし、本能寺の変で信長亡きすぐ後近江商人となった藤野喜兵衛の先祖、太郎右ェ門が寄金して再建したのです。この落慶法要で時の住職が境内に人形をたくさん並べお経に音頭の節をつけて唱い、しかも手ふり、足ふり拍子をそろえて踊りだしました。見物人も面白くなって踊りだし、ついに夜のふけるのも知らず踊りあかしたといいます。これが今の「江州音頭」の始まりでした。豊郷町HPより
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又十屋敷googleMAPへ

江戸時代後期、又十(またじゅう)という商号で呉服屋を始め、後に北海道に雄飛して松前藩の信頼を得て多くの漁場を開き、廻船業を営んだ藤野喜兵衛喜昌(ふじのきへいよしまさ)の旧宅です。代々受け継がれた業績は、「あけぼの印の缶詰」でも広く知られています。
公益社団法人びわこビジターズビューローHPより
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伊藤忠兵衛記念館googleMAPへ

初代伊藤忠兵衛の百回忌を記念して、初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれた滋賀県犬上郡豊郷町にある旧邸(1998年に財団法人豊郷済美会に寄贈)を整備し、2002年4月14日(日)より一般開放されることとなりました。
初代忠兵衛、二代忠兵衛の愛用品をはじめ、多くの資料が展示され、繊維卸商から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。
伊藤忠商事HPより
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八幡神社googleMAPへ

この境内の辺りには、石畑宗信という武将の城跡でした。石畑の地名がこの武将からきたことが分かります。宗信は源平合戦の屋島の戦いで扇の的を射止め、弓の名人として名高い那須与一の次男でした。宗信は、この辺りを支配していた佐々木氏(観音寺城・安土町)の旗頭で、この石畑と木部(野洲郡)の領地を治めていました。
八幡神社は、宗信が1239年(平安時代後期)に京都の岩清水八幡宮の応神天皇の分身を奉り建立しました。また、近くの称名寺は、宗信が晩年になって親鸞上人の弟子となり出家して1258年に建立したものです。この寺の住職さんはそれ以来、那須の姓を名のっています。
豊郷町役場HPより
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石清水神社googleMAPへ

祭神は、第16代応神天皇とその母、神功皇后(息長帯姫命)である。石段を登った亀甲山の山腹に鎮座する岩清水神社は、古く飛鳥時代からこの地にお祀りしている神社で、武勲守護の神、また安産の神として参拝、祈願する人が絶えない。祭神の神功皇后は、応神天皇を胎内に宿しながら三韓との戦いに出陣、肥前国(佐賀、長崎県)松浦で無事安産されたといういわれから安産祈願「鈴の緒」を拝受する人が多い。本殿の建築時代は不詳
Safely Frogブログより
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小野小町塚googleMAPへ

伝承によると、小野小町の父親とされる小野美実(好実)が都から出羽国(現在の秋田県、山形県)へ赴任する途中に小野宿(滋賀県彦根市)で宿泊した際、宿所にいた赤ん坊があまりにも可愛かった為、養女として迎えたと伝えられています。この養女が出羽の国で成長し小野小町となったとされ、その後、小町が病気で薬師如来から授かった霊薬の製法を伝えたのが、同町の旧家池上家だったとされます。池上家では江戸時代初期まで小町から伝授された霊薬(赤玉の丸薬)を「小町丸」として販売していたそうです。当地には15世紀後半に自然石に正面、両側に阿弥陀如来坐像を彫り込んだ小町地蔵が建立され小町塚として信仰されてきました。江戸時代後期の文化2年(1805)に中山道(木曾街道)沿いの名所や歴史的建築物、特異地形、民俗行事、風習などを編纂した「木曾路名所圖會」にも小野小町塚が記載され当時から知られた存在だった事が窺えます。江戸時代中期頃から発生したと伝わる「小野町太鼓踊」には小野小町が謡われており平成5年(1993)に彦根市指定無形民俗文化財に指定されています(昭和11年に一端途絶えましたが、近年復活を遂げています)。
小野小町HPより

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