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中山道3 武佐宿⇒愛知川宿

11km 2018年9月16日
先週は、9月2日(日)に防災訓練、9日(日)に日曜窓口当番で、それぞれ土曜日も雨模様、やっと再開です。
今日の昼に入ったうどん屋の亭主に声を掛けられ、「凄いね。」と言われて嬉しかったです。
人見知りなので、歩いている間は自分から声を掛けづらいのですが、
これからは、自分から声を掛けられるようになりたいです。
声を掛けられることは、ちょっと嬉しいですね。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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高札場跡 案内版googleMAPへ

案内板はよくあるのですが、小学生が作ったもの初めて見ます。ほのぼのしますね。
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松平周防守陣屋googleMAPへ

川越藩 松平家の飛地であった為、陣屋が置かれていた。
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武佐宿 本陣跡(下川家) 案内板googleMAPへ

武佐郵便局が本陣跡(下川家)であるが、今は門構えだけが残っている。
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むさ町googleMAPへ

武佐は「むさ」と読むんですね。
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武佐宿 案内板googleMAPへ

昔「牟佐」または「身狭」の字を使ったが、江戸時代頃より「武佐」を使う。
中山道宿村大概帳によると、本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠が23軒とある。
「八風街道」(八日市を経て永源寺を通り、鈴鹿山系の八風峠を越え伊勢に抜ける道で、近江商人の商業路として使われていた。)の起点として栄える。
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奥石神社googleMAPへ

「おいそ」と読むんですね。
延喜式神明帳に記載の奥石神社であり、社伝によると崇神天皇の御代四道将軍を差遣ありし時、吉備武彦が武運祈願の為に勧請せし所なり。また、孝霊天皇の30年石部大連と云う翁が社壇を築きしに始まると記されている。奥石神社を鎌宮と称した起源は明らかではないが、大正13年に鎌宮を奥石神社と改称している。本殿は天正9年織田信長の寄進と伝えられ柴田新左衛門尉家久の造営であるといわれている。明治9年10月村社、同14年2月郷社、同41年4月神饌幣帛料供進指定 大正13年2月県社に加列される。神社庁HPより
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五箇荘絵図googleMAPへ

幕府は東海道の他にも、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成しています。それらを含めて「五街道分間延絵図」(正式には「五海道其外分間見取延絵図」)と呼ぶ。
「五街道分間延絵図」作成の命が出されたのは寛政年中(1789~1801)のことで、文化3年(1806)に完成しています。現在、東京国立博物館と逓信博物館に所蔵されています。
絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれています。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれています。
縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれており、道の曲がりの急なところは、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がりにし、そのわきにたとえば北に何分と記して、本来の曲がり具合を示しています。
「国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所」HPより
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愛知(えち)川googleMAPへ

鈴鹿山脈の御池岳(標高1,242m)に源を発する茶屋川、御池川と御在所山付近に源を発する神崎川が深い峡谷を刻みながら流れ、永源寺で合流し北西へと流れを変え、大きな扇状地を形成する。下流では彦根市と東近江市の境界となりつつ琵琶湖へ注ぐ。上流から中流にかけての東近江市内では国道421号(八風街道)が並行する。「えちがわ」と読むんですね。今まで「あいちがわ」と読んでいました。
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竹平楼googleMAPへ

江戸時代から続く料理旅館。創業は宝暦八年、初代平八が「竹の子屋」の屋号で旅籠を営んだことに始まる。
明治十一年、三代目の平八の時に明治天皇が、民情視察のため北陸東山道をご巡幸なされ、当旅館にお立ち寄りになる。その時に侍従長の岩倉具視をはじめ大隈重信、井上馨、山岡鉄舟など明治を築いた重鎮も一緒だった。現在もその当時の建物を保存。
四代目平八の時に、「竹の子屋」の屋号から「竹」と平八から「平」をとり「竹平楼」と改めて現在七代目が受け継ぐ。
「竹平楼」HPより
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八幡神社googleMAPへ

創祀の年代は不詳であるが、社伝によれば聖徳太子当地での物部守屋との戦で身の安全を祈願され、神託により当社に身を潜められ難を免れたため報賽の田園を奉納され以来皇室の尊崇があったという。養老元年藤原史公は社殿を改修、小野宮親王は供饌料及び宝物を下賜された。又親王御駐輦の砌鮠魚を奉ったところ御感賞があったことから毎年この献をすることになったと伝えられている。永禄年間兵火に遭い、信長は復興せしめたが文禄3年またも火災に遭った。寛文11年に至り再建されたのが現在の社殿である。氏子内に南座、北座、公座の三座があって春祭には鮠魚を献し秋祭には赤蕪を神供する古例がある。明治9年村社に列し、同43年神饌幣帛料供進指定となる。
神社庁HPより
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恵智川浮世絵googleMAPへ

木曽海道六十九次之内 恵智川
英泉と歌川広重が合作のかたちで天保6年(1835年)ごろ完成させた『木曽街道六十九次』は、全72図のうちの24図が英泉の筆による。当初、英泉が絵師を務めていたが手を引き、広重に引き継がれた。
山田書店HPより

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