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中山道2 守山宿(野洲)⇒武佐宿

13km 2018年8月25日
台風20号一過なのに蒸し暑いのなんの。相当バテました。折角滋賀に居るから近江牛を食べたいと思っても、探してそこまで行く元気もなくて、近くのステーキレストランに入ったらオーストラリア産しかなくて、あまりの疲労から妥協してしまいました。残念!

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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稲荷神社の灯籠googleMAPへ

稲荷神社の創祀不詳。神社縁起書によれば、天智天皇壬申の乱に野洲川原で戦死した人々の供養及び鎮護国家を祈願し、石域村主宿称が福林寺を建立、その守護神として天暦二年に、伏見稲荷大明神を寺域小篠原志礼の地に勧請したという。以来同寺の守護神、小篠原氏神として、崇敬されたと伝える。のち永禄年間の争乱で、福林寺の伽藍は、衰亡し、当社と福林寺の一宇真福院のみが残った。寛永十年、松平陸奥守より禁制を与えられ、元禄十六年、志礼の地から現在地沢の口へ、社殿が遷座された。同時に正一位稲荷台大明神の宗源宣旨を受けている。享保十四年には、松平家の京屋敷中門が当社へ奉納移建された。明治四十一年村社に加列し、大正三年、十二所神社・三神社・大神社・岩神神社を合祀した。うち十二所神社(古宮神社)は、廃寺福林寺の一山の護法神として崇敬されていた由緒をもち、その本殿は室町時代の社殿として昭和二十五年重文の指定を受ける。《滋賀県神社庁》
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甲山古墳googleMAPへ

直径約30m・高さ約10mの円墳。埋葬施設は西に開口する片袖型の横穴式石室で全長約14m、玄室部長さ6.8m・幅2.8m・高さ3.3m、室内には赤色顔料(水銀朱とベンガラ)が塗布された凝灰岩製の刳貫式家形石棺が置かれている。羨道部は奥に進むに従い天井部が低くなり、床面も下がっていく。出土遺物は装身具や武具、馬具、須恵器など数多く、なかでも金糸や馬甲は類例が少ない貴重なものである。6世紀前半の築造。
国指定史跡、1941(昭和16)年指定。
国指定史跡(大岩山古墳群)、1985(昭和60)年指定。《古墳マップ》
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篠原神社googleMAPへ

社伝には村上天皇の御代、平将門平定の軍功によって、藤原秀郷の二男、田原二郎千時が、栗田、野洲二郡の地を賜った際、祭神等不詳の小社の正殿、社殿等三宇を建立し、神祗官領神祗伯ト部朝臣好眞卿を迎え、天慶九年、野洲郡椙江、小津神社四座の内二座を遷し、正二位篠原大明神の神号を賜る。のち後小松院の御代、進藤山城判官藤原雅治が、霊夢神告により、正殿、礼殿、宝蔵、楼門、廻廊、玉垣等一切を改造し、社領五十貫の地を寄進し、社司篠原主膳正綱豊に相添え社寺を定め、社僧に法印綱賀を当てゝ代々氏神敬神の誠を捧げてきた。明治三年旧暦九月神社の横を流れる家棟川(天井川)が決潰して建造物一切が埋没したが、その後、復旧した。《滋賀県神社庁》
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源義経の元服の地googleMAPへ

承安4年(1174)3月3日、源氏の御曹司(おんぞうし)、牛若丸は京の鞍馬で遮那王(しゃなおう)と称してひそかに源氏の再興を志していました。
鞍馬をこっそり抜け出した牛若丸は兄頼朝を尋ねんと、奥州の金売り吉次と下総の深栖(ふかす)の三郎光重が子、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同伴して東下りの途中近江の「鏡の宿」(現在の滋賀県竜王町鏡)に入り、時の長者「沢弥傳(さわやでん)」の屋敷に泊まります。
その夜、稚児姿で見つかりやすいのを避けるために元服することを決意します。
そこで地元「鏡」の烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子(えぼし)を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし元結(もとゆい)の侍姿を池の水に映し元服をしたと伝えられています。《滋賀県竜王町観光協会》
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日野川googleMAPへ

滋賀県中部(湖東地域)を流れる淀川水系の一級河川。日本各地にある日野川のひとつ。
鈴鹿山脈の綿向山(標高1,110m)に発し、蒲生郡を北西流。下流では近江八幡市と野洲市の境界となりつつ琵琶湖へ注ぐ。2つの洪水調節用ダムと3つのかんがい用ため池があり、設置の古い順から、北溜(日野町仁本木)、横井溜(日野町北畑)、鎌掛池(日野町薬師前)、日野川ダム(日野町村井)、蔵王ダム(日野町蔵王)となっている。

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