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中山道15 馬籠宿⇒妻籠宿⇒JR南木曽駅

13km 2019年4月20日

相変わらず馬籠宿は外国人観光客で一杯。日本?なのか戸惑うほどです。妻籠まで歩いている人も外国人ばかり。中には小学生ほどの子連れ家族もいたりして大丈夫かな?と心配してしまいます。
妻籠宿は、静かな宿場風景に癒されました。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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恵那山
木曽山脈(中央アルプス)の最南端の標高2,191 mの山であり、日本百名山及び新・花の百名山に選定されている。
古くは胞(えな)山、胞衣(えな)山とも書かれ、また角度により船を伏せたように見える事から舟覆伏山 (ふなふせやま) などとも呼ばれた。吉蘇志略で「天照大神がここで降誕され、その胞衣(えな)がこの山に埋められた」と記載されており、これが山名の由来とされている。また古事記で日本武尊が科野峠 (神坂峠) で拝したのも恵那山の神である。
江戸時代中期には毎年修験道者が礼拝に訪れ、前夜に恵那神社で禊ぎをして登山を行っていた。また明治から大正時代にかけては道路や登山道が整備された事により恵那講が流行し、白装束を来た一般人が多く訪れるようになった。
ウィキペディアより
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長野県南木曽町 道路標識
いよいよ長野県に入りました。
南木曽町(なぎそまち)は、妻籠宿及び三留野宿が、中山道の宿場町として発展した。また、面積の約94%を森林が占めており、南木曽ろくろ、ひのき笠といった木材を使用した産業が有名である。
観光地では妻籠地区の妻籠宿や馬籠峠、田立地区の田立の滝、読書地区のかぶと観音が有名である。
ウィキペディアより
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馬籠峠 峠の茶屋
ネットで調べると、営業しているらしい。
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馬籠峠
長野県木曽郡南木曽町と岐阜県中津川市の境にある旧中山道の峠。標高801m。
かつては長野県内の峠だったが、山口村が中津川市と越県合併したことで県境の峠となった。
ウィキペディアより
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椹(さわら)の大樹
樹齢 約三〇〇年
胴廻り 五・五米
樹高 四一米
材積 三四立方米
椹材は耐水性が強く、風呂桶や壁板、建具等に多く使われますこの木一本で約三〇〇個の風呂桶を作ることができます。
かもいぎ(神居木)
この椹の下枝が立ち上がって特異な枝ぶりとなっていますがこのような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)といいます。
昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所であると信じられていました。
傷つけたり、切ったりするとたちまち、祟(たた)るといい伝えられ、杣人(そまびと)はこの木の下を通ることもいやがりました。
この木のように両方に枝の出た木を両神居といいます。
木曽森林管理署
南木曽支署
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妻籠宿
妻籠宿は中山道と飯田街道の追分に位置する交通の要衝であった。天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、妻籠宿の宿内家数は31軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒で宿内人口は418人であった。
1960年代に深刻となった長野県の過疎問題の対策として、開発事業としての保存事業が基本方針となった。1968年から1970年にかけて明治百年記念事業の一環として寺下地区の26戸が解体修復された。その後、観光客が増え始めたことから観光関連施設の整備が行われるようになり、保存事業を制度面から後押しするために、1973年に当時としては例の少ない、町独自の町並み保存条例である「妻籠宿保存条例」が制定された。
1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地の一つに選ばれた。他の保存地区と異なり、周辺の農地など宿場を支えた環境全体を保存するため、国有林を含めた広範囲が指定されている。
ウィキペディアより
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口留番所跡
江戸時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のこと。江戸幕府の関所に相当する。また、江戸幕府が設置した施設でも裏街道に設置されたものなど、関所の要件を満たさない小規模なものは口留番所と称した。
ウィキペディアより
鯉岩
鯉岩と呼ばれるのはどうも江戸時代以降の事で、それ以前はこいはこいでも、木曽義昌(木曽義仲の後裔)の家臣がこの岩付近で恋物語をささやいたという伝説などから、こちらの「恋」の方が一般的で地名の恋野の由来にもなっています。 木曽路の名所として知られ、中山道三名石(鯉ヶ岩・烏帽子岩:吾妻橋地区・兜岩:神戸地区)の一つとして江戸時代後期の文化2年(1805)に発刊された「木曽路名所絵図」にも載っていた程でした。名所絵図は文字通り、各地の名所を見た人が判りやすいようにに多くの挿絵が描かれ、現在でいうガイドマップのようなもので、木曽路名所図会は文章を秋里籬島、挿絵を西村中和が担当しています。木曽路名所絵図では鯉ヶ岩の挿絵が1ページ丸まる描かれ、説明として「鯉巖 妻籠宿の北はづれにあり、形鯉に似たるより名に呼ぶ」と記載されています。
明治24年(1891)の濃尾大地震(震源は岐阜県本巣郡西根尾村、現在の本巣市、規模はマグニチュード8.4又は8.0)により鯉の頭部分が滑落し現在の様な形状(高さ約5.6m、幅約6m)になりました。
「長野県:歴史・観光・見所」HPより
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妻籠城址
16世紀中期に木曾氏は甲斐の武田氏に従っていたが、妻籠城改築の年と伝わる天正10年(1582年)に入って間もなく織田氏に寝返った。織田信長はこの出来事を好機と見て、木曽、伊那、そして徳川家康の遠江から大軍を武田氏がいる甲斐へと攻め寄せ、滅亡させた。天正12年3月(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、木曾義昌は当初、徳川家康に付いていたが、羽柴秀吉に寝返った。同年9月、妻籠城に山村良勝を入れて、徳川方の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らと戦い撃退した。元和2年(1616年)の一国一城令により、廃城になった。
ウィキペディアより
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袖振りの松の水舟
木曽義仲が弓を射るのに邪魔となった松を巴御前が袖を振り、なぎ払ったと云われる「袖振りの松」は、松くい虫の被害により平成二十一年に伐採されました。
この松は、地域の皆さんにより、長さ約七mという通常の倍以上の大きさがある水舟に生まれ変わり、巴御前の勇ましさを伝えるのにふさわしいものとなりました。
案内板より

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