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中山道14 中津川宿⇒落合宿⇒馬籠宿

9km 2019年4月13日

5か月ぶりの再開です。再開初日に9km楽勝と思いきや、上り坂の連続で参りました。水にカロリーメイトも忘れブランクの恐ろしさを思い知らせらされました。今年日本橋まで行けるかな?来年東京オリンピックまでとっておこうかな?

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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茶屋坂 高札場
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茶屋坂 高札場
中山道鵜沼宿の出身であるという「はだか武兵」が、中津川宿の茶屋坂というところに住んでいたが、年中、ふんどし一枚の裸で過ごしていたとされる。
ある夜、木曽街道の須原宿の神社で疫病神と同宿して、兄弟分の縁を結び、武兵が来れば疫病神が逃げていくという約束をしたという。以来、疫病の者のところへ武兵が来ると病が治り、これが評判になったとされる。
ウィキペディアより
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中津川宿絵図
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中津川宿絵図
中津川宿は、奈良・平安時代から東山道の要衝の位置にあり、古くから穀物、塩、味噌、酒、小間物、呉服、紙などの商業活動が盛んで、 周辺の人々を集めた六斉市を開くなど、江戸時代には中山道でも有数の宿場として賑わっていた。
 茶屋坂、新町、本町、横町、と続き、町並みの中央を流れる四ツ目川をはさんで、商家が多い新町と、本陣、脇本陣のある本町とに大きく分かれていました。
「中山道歩き旅 45 中津川宿から大井宿へ」webサイトより
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元矩碑 案内図
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元矩碑 案内
間半兵衛元矩が詠じた歌詞を取り入れ七代 間鷲郎が親族一同に図り父の三年祭に当る明治27年(1894年)8月26日に建てた顕彰碑であります。
山半の六代目を継いだ元矩は中津川の戸長を8年、初代町長を2年、約10年にわたり町村の行政を担い当公園を開いた中の一人であり園内に父 秀矩碑、𡈽衛碑を建てたのち、49歳の若さで世を去りました。扁額は天神碑と同じ中納言菅原為栄の書であり撰文を認めたのは熱田神宮の大宮司 角田忠行であります。
忠行は小説「夜明け前」に暮田正香の名で登場し、その行動を島崎藤村が詳しく伝えております。
【現地案内板より】

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尾州白木改番所跡
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尾州白木改番所跡
中山道には木曽から伐採した材木を監視する尾州(尾張藩)の番所が設けられていました。
この中津川市上金の地にあった「尾州白木改番所」は天明2年(1762年)に建てられ、明治4年(1871年)に廃止されました。
白木とは桧(ひのき)など木の皮を削った木地のままの木材で、屋根板、天井板、桶板などに利用しました。
尾張藩は領外への搬出を厳しく取り締まり、白木や「ひのき、さわら、あすなろ、こうやまき、ねずこ」を始めとする木曽五木の出荷規制を行っていました。
【現地案内板より】

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中山道上金かいわい 案内
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中山道上金かいわい 案内
この付近は江戸時代、上金村と呼ばれ中津川村の支村であった。
『濃州徇行記』「寛政七年」(1795)には、石高六七石余りの小村で、家数十八戸、人口八五人、民家は街道左右に散在し、多くの山畠があったと記されている。
国道十九号により約二十m中山道が消滅しているが、道幅は三~四間であったといわれている。
地下道を通って東に進むと「子野の地蔵堂石仏群」があり、高さ二m余りの徳本行者念仏碑の他、庚申・地蔵・観音等が数多く祀られている。
平成十四年十月吉日
中津川市教育委員会
【現地案内板より】

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子野 石仏群の桜
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子野 石仏群の桜
血元の人たちはここを「とっこん様」と呼んでいる。
「徳本上人の念仏碑があり、徳本様がなまって「とっこん様」になった。ここの石仏は中山道沿いにあった石仏を集めたと言われている。
境内には、樹齢350年のしだれ桜と寄り添うように柊の木が植わっている。
【現地案内板より】

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馬籠城跡
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馬籠城跡
馬籠は遠山荘に属していたとされ、鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』では、木曾義仲の妹の宮菊姫は北条政子の養女となり「美濃国遠山荘の一村」を与えられたと記され、これが馬籠とされて宮菊姫にまつわる伝承や墓が馬籠に伝わっている。
室町時代には、馬籠遠山氏の所領となっていたようである
応仁の乱時の文明5年(1473年)には、東軍の小笠原家長と木曾家豊が伊那谷と木曽谷から遠山荘に侵攻している。天文24年(1555年)に木曾氏も武田氏に降り、続いて遠山氏も武田氏の傘下に入った。
その後、元亀2年(1572年)頃から、武田信玄と織田信長の間で抗争が始まり、天正2年(1574年)武田勝頼が落とした遠山十八支城の中に、まごめの名が見える。天正9年(1581年)、木曾義昌が武田家を見限ると馬籠城は木曾氏の支城となった。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの際には豊臣秀吉側に付き、馬籠城に島崎重通(島崎藤村の祖先にあたる)を入城させたが、徳川家康方の菅沼定利・保科正直・諏訪頼忠の連合軍が現在の馬籠宿の北に陣を張り馬籠城を攻める事を知った島崎重通は、山村良勝の守る妻籠城に逃げ、そこで徳川勢を撃退した。馬籠城はそのまま放置されたが馬籠は戦火から逃れた。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い以後、徳川氏の領土となり、元和元年(1615年)以降は尾張国徳川氏の領地になったが、特に手は加えられず廃城になった。
ウィキペディアより

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