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中山道13 JR恵那駅⇒大井宿⇒中津川宿⇒JR中津川駅

12.3km 2018年12月1日
冬眠するはずでしたが、どうも歩きたくて御嶽宿から大井宿の1泊2日の行程を飛ばしてしまいました。暖かくなった3連休の時までとっておきます。

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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大井の榎
恵那の大井に巳之助という大泥棒がおりました。金持ちの家からたくさん盗んでくると、それを、暮しに困っている人のところへ置いていくのです。役人は何とかして巳之助を捕えようと思いましたが、いつも上手に逃げ廻って、捕えることができませんでした。捕えても、盗んだものを持っていないので仕方がありません。盗むところを見つけて捕えねばなりません。
ある晩のこと。金持ちの家の塀を乗り越えようとするところを、役人達が張り込んでいて捕まえました。取り調べがすんで、石責めの刑となりました。巳之助を、阿木川の榎に固く縛りつけ、役人達は大小の石を思い切り投げつけました。ところ構わず石をぶつけられる巳之助は、人の声とは思えぬような声で叫んでいましたが、縛られたまま、血だらけになって息が絶えました。
その後、大雨が降り続くたびに、阿木川は大水になりました。長年にわたって、いつもいつも氾濫して、大井の人達は大変困りました。巳之助を、あんなむごい殺し方をしたものだから、その祟りではないだろうかと、人々は言い出しました。榎の下に社を作り、巳之助の霊をだいじにまつりました。
すると、どうでしょう。あれほど毎年氾濫に苦しめられた大井の人々にはウソのように、阿木川はほとんど氾濫しなくなりました。
JA東美濃㏋より
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市神神社
創建は室町時代中期、大井町字市神神社市場田に霊石を安置し八大龍王の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。寛永9年(1632)、市杵島姫命、大己貴命、事代主命、水分神、稲荷大明神の分霊を勧請合祀しました。その後、数度遷座を繰り返し、貞享5年(1688)に現在の大井橋上流付近に遷座しましたが、河川の増水や洪水で境内が安定せず明治25年(1892)に現在に遷座しています。例祭である七日市は元々1月7日に行われた煙草市に由来し、昭和初期までは田の神を迎える為に煙草の花を模った福団子を食するのが慣わしだったと伝えられています。往時は福寿円満、商売繁昌、養蚕守護・旱魃雨乞に御利益があるとして例祭には境内に入りきれない程参拝者が訪れたそうです。
岐阜県: 歴史・観光・見所HPより
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古屋家住宅(大井村庄屋)
古屋家は案内板によると「 当家は江戸時代には商業を営み、天保元年から20年間ほど庄屋を勤めた家柄である。この家は間口15間(約27m)、奥行31間半(約65m)の敷地で街道に面した右側に表門があり、その奥に玄関・式台がつき、茶室に続いて15畳2間続きの特別客室がある。この部屋は2室共に床の間と違い棚がつき、畳敷廊下の外が庭園に続く広大な屋敷であった。母屋や塀は柱・梁・たる木も土壁で塗り、北側屋根に卯建をつけ、そのうえ北側の土塀は厚さ約、30cmの火防壁として、全体が火災予防の建築となっている。 恵那市・恵那市教育委員会 」とあります。現在の主屋は江戸時代に建てられたもので木造2階建、切妻、桟瓦葺、外壁は塗屋造で街道側は黒漆喰、その他は白漆喰で仕上られ腰壁が下見板張押縁押さえになっています。北側の卯建程ではありませんが、南側の隣家に接する壁は1・2階共に漆喰が塗られた袖壁が外壁より前に張出すように配され防火の意識が高い建物になっています。一般的な商家建築とは異なり1階正面に高い塀を設け屋敷風な構成になっています。
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宿役人の家
林家 は文化二年に本陣家より分家して以来、明治に至るまでの六〇余年間、代々大井宿役人 の問屋役 を務め、名字帯刀 を許された家柄である。当家は間口七間半奥行五間あり11・10・8・6・4畳などの部屋が一四室もある大形旅籠屋であった。そのうち東側二間は土壁で境をして、土間に続いて式台付きの八畳の部屋三室が特別客室となっていた。
宿役人には問屋 (最高責任者)・年寄 (問屋の補助役)、その下役人に人足指 (人足の指図をする役)・馬指 (馬の指図をする役)・書役 などがあり、幕府道中奉行の命をうけ道中の荷物や人の輸送・飛脚などの継立事務 を行う、宿場の最も重要な役人であった。
恵那市・恵那市教育委員会
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古山家住宅(大井村庄屋)
案内板によると「 古山家は江戸時代に屋号を「菱屋」といい、酒造と商売を営業していた。そして享保年間から幕末まで約150年間、大井村の庄屋を勤めた旧家である。屋敷は間口10間半(約19m)・奥行35間(約63m)の敷地の中に、14畳・10畳・8畳の部屋あど合計8室、それに土蔵をもつ広大な建物があった。今の建物は明治初年に上宿より移築したもので、前面に太い格子をはめ、はねあげ式の大戸が付き、奥座敷には床の間・違い棚・書院・入側廊下のある10畳2間が続き、江戸時代の雰囲気を色濃く残している。 恵那市・恵那市教育委員会 」とあります。外観は木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入り、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ(2階正面のみ黒漆喰仕上げ)、街道側は1階・2階共に格子戸が嵌め込まれています。一般的な商家建築とは異なり、主屋は街道より下げられていて敷地を囲うように高い板塀が立てられています。向って右側の道路側は土蔵と付属舎が連続して建てられ往時の繁栄が窺えます。現在は「中山道ひし屋資料館」として一般公開されています。
恵那市・恵那市教育委員会
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大井宿本陣跡
大井宿は、中山道六十九次のうち、江戸から数えて四十六番目の宿場町です。
格式高い本陣の門や、格子戸のある庄屋宅、うだつと黒壁の美しい旧家などが静かにたたずみ、当時のにぎわいを見せた大井宿の様子がしのばれます。
また、宿内には、敵の侵入を防ぐために、道が直角に曲がる「桝形(ますがた)」という構造の見られるところもあります。
なお、川越街道の大井宿(埼玉県ふじみ野市)とは別物である。
恵那観光協会HP
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広久手坂の馬頭観音
馬頭観音の姿は、頭上に馬の頭を頂くのが多いが、この広久手坂 の馬頭観音は、三面八臂という独特の姿である。このあたりでは珍しい。大正十四年夏に長国寺 悦音和尚が「旅人の道中安全と悪人と悪病を防ごう」と開眼供養され、これを念願して、近くの山本鉄次郎翁が、この馬頭観音を立てられた。
MonumentoHPより
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茄子川焼
茄子焼とも呼ばれ、美濃国恵那郡阪本村茄子川字広久手(岐阜県中津川市茄子川字広久手)で焼かれていました。1578(天正6)年頃に瀬戸の加藤吉右衛門が同地字諏訪前釜場で始めたとも、1602(慶長7)年に加藤庄兵衛が広久手の釜跡で陶器を焼いたとも伝えられています。その後、1832(天保3)年に瀬戸から加藤喜兵衛がこの地に来て窯を築き、また丹羽九兵衛・篠原利平治らも同じ頃に開業、一時衰え、明治の初期には再び隆盛になりましたが、東濃の製陶に押されて衰微しました。
陶芸なんでもかんでもHPより
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茄子川小休憩所 藤原家
格式高い本陣の門や、格式のある庄屋宅、うだつと黒壁の美しい町並みに明治天皇が、この家に宿泊された時に、岩村で処刑された、一条宰相中将藤原信能卿(一条信能)に勅使を派遣され祭祀料を送られました。
藤原家とは、加賀前田家の重臣藤原一考の子歌右衛門が、17世紀の初めの頃当地に移り住んで、藤原家の当主は代々「長八郎」と名乗り、茄子川の村方役人、尾張領の庄屋、戸長等を歴代にわたり努めてきた。
一条信能については、源 実朝が暗殺(建保七年、1219年)され、頼朝以来三代続いた源氏の血筋が絶えて、源氏の敵、平家の血筋である執権北条氏(北条政子)に対する不満もかなり出ていた。
承久三年(1221年)、京都の後鳥羽上皇や公家(貴族)が、鎌倉幕府を中心にした武士の政治を、自分達の手に取り戻そうと企て、後鳥羽上皇の名前で、全国の主な武士の頭へ当てて、「鎌倉幕府を討て」という手紙が出された。
鎌倉でも天皇方へ行こうとする武士も大勢いたが、北条政子は、「お前達はつい最近まで、裸足で、ボロを着て、貴族の下男として、犬のような生活をしていた者を、それを今のようにしたのは私の夫、頼朝様ではないか。その恩を忘れ、貴族の下男になりたい奴は、今すぐ、私を殺し、頼朝様の墓を蹴散らして、京とへ行くが良い」。その言葉で、武士達は団結し、十万の大軍で京都へ攻め上がり、上皇方はひとたまりのなく敗れ、後鳥羽、土御門、順徳の三上皇は島流しになり、多くの貴族の領地は没収された「承久の乱」。
この事件を起こした戦争責任者として、忠臣の一人、一条宰相中将藤原信能卿一条信能(のぶよし)は、後鳥羽上皇の宣旨(せんじ)によって、宇治川芋洗方面の防御の将として出陣したが、幕府軍と戦い敗れ捕らえられ、遠山景朝に預けられたものの、この地(相原)で幕府の命のより処刑された。一条信能は、幕府軍として出陣した岩村城主「遠山景朝」に伴われて、鎌倉へ護送される途中、幕命によって、遠山荘岩村の相原で処刑される。享年32歳であったという。
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双頭一身道祖神
身体が一つ、頭が二つの高さ1mほどの道祖神。 県下ではここだけしかなく、市の指定文化財。道祖神は、寒の神(さいのかみ、さえのかみ)ともいい、村境などに祀られたことから、道路の悪魔を払い、旅人の安全を守る民間信仰の神であったが、いつのまにか縁結びの神となって相愛の男女が願をかけるようになった。

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