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中山道1 草津宿⇒守山宿(野洲)

9km 2018年8月19日

7月1日に定光寺街道を終えて1か月半ぶりです。
いよいよ中山道をスタートしました。今年の夏は7月から暑かったです。
でも暑さ寒さも彼岸まで、ようやく気温も下がったので久しぶりに街道散歩に出かけました。
手始めに9kmでしたが、精一杯でした。昨年は16km平均でしたが・・・

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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大放山 光明寺googleMAPへ

鎌倉前期、貞永元年(1232年)に設立。当寺はもともと比叡山延暦寺の一道場として天台僧智観によって開基(設立)され號称寺(ごうしょうじ)と称した。
1235(嘉禎元)年、浄土真宗の開祖である親鸞聖人が関東より京都へ帰洛の途中、野洲郡木部の錦織寺を経て、しばしば当寺にご逗留になり、法を説かれた。住職の智観は親鸞聖人の教化に深く帰依し、聖人に教えを請うために度々上洛した。そのような事情のもと、聖人から六字名号を授けられ、善信という釋名を授かった。
当寺の現在の本山にあたる興正寺は、1476(文明八)年から住職の経豪が本願寺の蓮如上人のもとに帰属し、本願寺と合併した。(それ以前は寺の名前を仏光寺としていた。)
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草津歴史街道googleMAPへ

中山道 は木曽路 とも呼ばれ、日本の背梁中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも東海道に次ぐ幹線路であった。
 その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を経由、碓氷峠に至り、浅間・蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御獄・駒ヶ岳間の木曽谷を降り、美濃路を西進、関ヶ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。
 草津には、笠川を経て渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の街並を通過したのち、砂川(旧草津川)を越えて草津追分に至った。
 なお、中山道分間延絵図によれば、渋川には梅木和中散出店小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)ほかの社寺仏閣、名所が街道沿いに存した。
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伊砂砂神社googleMAPへ

明細書によると創祀年代不詳であるが、旧社名を渋川大将軍社と称し、平安時代より鎮座すると伝えられる。延享三年の社蔵文書には「応仁二年九月十三日六角四郎太夫高頼が河内国若江郡渋川神を勧請し奉り武運を祈る」とあり、本殿棟札には、奉造立渋川大将軍社応仁二年十一月十三日と記されている。元禄四年社殿修復の時棟札には天大将軍社とあり、領主本多隠岐守の名がある。当社は古来旱時雨を祈って霊験顕著であった、古式花踊は雨乞いの御礼踊である、本踊は三十年目又は五十年目に奉納し、毎年稽古踊を九月十三日夜燈明祭に併せて行う。
明治二年現社名に改め、同九年村社に列し、同四十一年神饌幣帛料供進指定。
大正十一年旧本殿が特別保護建造物に指定され、同十五年これを解体修理して現位置に奉遷した。
織機にかけるために縒りあわせた麻糸のことを「へそ」と言う事から由来する、という説が有力。
一方「万葉集」に見える額田王がこの土地を通ったときの歌「綜麻形の林の始めのさ野榛の衣に着くなす目に著くわが背」とあることから、古くからの地名と考えられる。
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今宿の一里塚googleMAPへ

江戸と東海道との合流点草津宿を結ぶ中山道に129ヶ所あった一里塚のうち、江戸・日本橋から数えて128番目の一里塚。県内では、東海道、中山道のほか、朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還、西近江路などの街道沿いに築かれたが、明治以降、道路事情の改良・拡幅に伴う工事、農地、宅地への転用などによって徐々に消えていった。復元された一里塚や一里塚跡を示す石碑は県内各地で見られるが、当時の一里塚が実際に残っているのは、県内ではこの今宿のものだけのようだ。ただし、高島市新旭町安井川にある西近江路の「河原市一里塚」のように、一里塚の名残を示すものが現場に残されている例は県内にも数例残っている。
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中山道守山宿googleMAPへ

江戸時代初期の寛永19年(1642年)に「守山宿」として制札が与えられた。「守山」の地名は、比叡山延暦寺の東の関門として、東門院が創建されたことに由来する。すなわち、比叡山を守るという意味である。
京からの東下りにおいては最初の宿泊地で、「京立ち守山泊まり」と言われ繁栄した。後に、東の吉身、西の今宿が加宿となり、さらに発展した。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、守山宿の宿内家数は415軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠30軒で宿内人口は1,700人であった。
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東門院googleMAPへ

延暦年間(782-805)、「比叡三千坊」といわれる比叡山の僧坊のひとつとして最澄が開き、正確には「比叡山東門院守山寺」といいます。桓武天皇(737-806)から「比叡山を守る東門」としてこの名を賜り、寺領5村350石を賜ったという縁起が伝えられる寺院です。
滋賀県でも重要な寺院が名を連ねる近江西国三十三ヶ所霊場に数えられる名刹で、本尊の十一面観音菩薩像は古くから多くの方にあつい信仰を受けてきました。また、護摩堂(不動堂)に安置されている半丈六の木造不動明王坐像は近江最大といわれ、脇侍の二童子と共に国の重要文化財に指定されています。
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右中山道并美濃路 道標googleMAPへ

右が美濃(岐阜)へと続く中山道で、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」は、左の道を行くと人々の信仰を集めた真宗木部派本山である錦織寺(中主町)に至る約四kmの道程(錦織寺道)であり、それに続く「こ乃者満ミち」は、琵琶湖の津として賑わっていた木浜港へも通じる道筋であることを示している。
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守山宿・町家「うの家(け)」googleMAPへ

この建物は、元内閣総理大臣 宇野宗佑氏が生まれ育った家でした。
 宇野家は、江戸時代「年寄」と言う役職を務め、「長左衛門」と名乗っていました。又宿場に馬や人足(労働力)を提供する事を家業としていました。その後荒物屋を営み、荒物屋長左衛門と名乗られた。屋号の「荒長」はここからきています。
 明治初期に酒造りに展換され「栄爵」を醸していました。平成21年頃まで酒造りをされていたが、その後廃業されました。この建物は明治初期頃に建てられたものと推測され、築140年程たっています。
 平成22年、守山市が宇野家をゆずり受け、改修工事を経て、平成24年1月29日中山道守山宿の拠点として又情報発信、憩いの場としてオープンしました。
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石部道道標googleMAPへ

守山宿の北端、善光寺道との分岐点にある石造道標で「右高野新善光寺すぐいしべ道」と刻まれています。高野新善光寺とは栗東市にある新善光寺で、石部道とは東海道石部宿への案内を示しています。
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三上山googleMAPへ

滋賀県野洲市三上にある山。一般には近江富士として知られる。標高432m。ふもとには御上神社や滋賀県希望が丘文化公園がある。
『古事記』『延喜式』にも記述が見え、また和歌にも詠まれた由緒ある山である。紫式部が「打ち出でて 三上の山を 詠れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」と詠んだように近江富士という愛称がある。藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説が残ることから「ムカデ山」の異名も持つ。
中世以降、周囲の山々が燃料などの採取目的に伐採が続けられて、大規模にはげ山化していったが、三上山は取り残されるように青々とした山様を維持した。このことからランドマーク的に存在感を増し、松尾芭蕉が「三上山のみ夏知れる姿かな」と詠んでいる。

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