16Km 2016年11月23日
下街道編 第7弾 JR高蔵寺駅からJR多治見駅まで16kmを歩いて来ました。これで下街道(恵那から名古屋:代官町まで約75km)を徒破しました。
内々神社の紅葉は美しかった。昔の人々も同じ風景を観ていたのだろうか。
峠の茶屋は今は無く、道中のコンビニでトイレ休憩やカロリーメイトを買ったりして、ゆっくり歩いて来ました。
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1781年(天明元年三月)慈現法印氏が修験道の寺院として開祖、将軍地蔵尊を本尊とし、秋葉信仰と結びついて一般民衆と強いつながりを持った真言宗寺院。
景行天皇の御代、日本武尊は熱田の宮で、尾張の祖といわれる建稲種命に会われ、副将軍とされ、その妹宮簀姫命と婚約され、東国の平定に出られました。平定が終わっての帰り道、甲府から信州長野、美濃大井、釜戸、池田を通って尾張との国境内津峠にさしかかった時、東海道を帰られた建稲種命が、駿河の海で水死されたことを知り「あの元気な稲種が・・・」と絶句し、しばらくして「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆かれ、その霊を祭られたのが始まり。
内々神社は延喜式神名帳にも記載された神社。現在の社殿は棟札によって、本殿・幣殿が文化7年(1810)、拝殿が同10年(1813)の再建であることが知られる。大工は信州諏訪の立川富棟・富之・富方を招いて造営に当たらせている。この社殿の建立に携わった信州立川流の大工は、彫り物を多用した作風によって近世中期以降次第に名声を広めていき、山梨・静岡・岐阜・滋賀・京都などにも作品を残している。内々神社の社殿は、装飾豊かで立体的な丸彫りや浮彫りの彫刻を数多く用い、立川流の作風がよく表現されており、一連の立川流の作品の中でも質の高いものであるといえる。(岩田敏也)
江戸時代には中山道での輸送に使われており、明治時代に入ると難所ゆえにトンネル建設の声が高まった。1880年には下街道の改修が行われて荷車や馬車の通行が可能になったが、1900年に中央本線が名古屋駅 – 多治見駅の間に開通すると、物流は鉄道を使うようになって峠は急に寂れた。
池田宿は美濃最南端の宿場町であり、険しい内津峠の手前ということで多くの旅人が立寄り、地域一番に繁栄した。庄屋はその財力で多治見の地場産業である陶磁器の職人に土地や薪代を貸して助け、その後の陶磁器産業発展に尽くした。当時の陶磁器は、今渡湊・兼山湊(可児市)で舟積みされ、木曽川を経て桑名、大坂、江戸へと運ばれた。(一方で陸路では、愛知県三河地方~信州へ通じる中馬街道を経由して信州、東北へも運ばれた)また、池田町からは宮大工の野村作十郎(京都御所から従五位を叙位)や、明治に自由民権運動に尽力した小池勇といった人物を輩出している。
明治33年に鉄道が開通すると、物流の中心は多治見駅周辺に移り変わり、下街道は国道19号線となり、人から車へと通行の主役は変わり、現在は当時の面影を残す建物が静かに並ぶ町並が残っている。