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上街道3 牛山⇒東方端

13km 2018年5月5日
昨日に続き今日も13kmがきつかった。小牧までは上街道の案内が目についてましたが、春日井から名古屋市内にかけてはあまり見かけなかった。名古屋市内では所々行き先案内版みたいなものがあったけど、道路標識みたいで目立たなかったね。
これで上街道は一応終わりです。この次はどこへ?

☟タイムラプス動画です。

【下記の写真は、クリックで拡大】

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首切地蔵(身がわり地蔵)googleMAPへ

この地蔵菩薩は、文政(1818~30)の銘がある1メートルほどの石像で、摩滅がひどく、胴体がやや斜めに、二つに分かれている。
昔、このあたりの郷士、一ノ曽五左衛門が、同家に仕えていた女中に過失があったので手打ちにしようとしたところ、この地蔵が身代わりになったと伝えられている。(名古屋市教育委員会)
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ふれあい橋googleMAPへ

庄内川と矢田川あわせて約350mを跨ぐ有効幅員約4mの人道橋で平成5年完成。それぞれの川を延長171.9mの橋が2つ架かる。
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六所神社googleMAPへ

社名は、六柱の神を祭神とすることによる。創建当初から六柱を祭神としていた場合、都合により六つの神社を合祀した場合などがある。
令制国の総社の中には「六所神社(六所宮)」という社名のものがいくつかある。これはその国の一宮から六宮までの祭神を勧請して総社としたことによるものである。このことから、歴史学者吉田東伍は、「六所」とは「六か所」という意味だけではなく、管内の神社を登録・管理し統括する「録所」の意味でもあるとしている。民俗学者中山太郎は、「録所」は墓地の意味であるという説を唱えている。
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片山八幡社googleMAPへ

社伝によれば、第26代継体天皇5年(511年)、尾張国山田郡片山郷、つまり現在地に鎮座したという。
御祭神は、誉田別尊(応神天皇)。当初は大曽根八幡社と呼ばれ、大曽根の地名の由来となった。
室町時代中期までは、押領地を有して本地御堂が備わっていたが、戦国時代になり、たびたびの兵火に遭った。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの兵火が最大で、多くの文献が焼失、以降極めて荒廃したという。この時期、一時、熱田神宮に仮遷座し、その際は大原与三大夫がお守役になったと伝わる。
江戸時代になり、元禄年間(1688年-1704年)、尾張藩2代藩主徳川光友(瑞龍公)がたまたまこの地を通りかかった。
森厳なる社地を見、その荒廃を嘆き、ただちに東照宮の神主であった吉見民部大輔とその嫡子左京大夫(吉見幸和)に命じて、社殿の造営を進めさせた。元禄8年(1695年)11月、その落成を待って、遷宮の祭儀が執行され、この時、境内で祀っていた天照皇大神・菊理媛神を同殿合祀した。造営に際しては、江戸高田穴八幡の宮を模し、瑞龍公も崇敬するようになった。また、山田即斎に穴八幡の神楽拍子を習得させて、当地に伝授させた。その後、尾張徳川家では当社を氏神とし、年4回の国内繁栄・五穀豊穣・武運長久の祈願、名古屋市中の鬼門除けの祈祷を行った。

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